2020年03月9日(月)  

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1.はじめに

 『スッタニパータ』第四章、第五章で使われている語彙を説明をするコーナーです。まず、最初にブッダは語彙について、どういう考え方にあったのか、どういう使い方をしていたのかを、解いていきたいと思います。

まず、ブッダは慧眼の持ち主であった。
 悟りを開いたということですから、慧眼の持ち主であることには違いがないのですが、特に『スッタニパータ』第四章にみられる「名称と形態」については872〜874や1036〜1037にありますが、その虚構性を見抜いています。

自分が語る言葉と行動は常に一致していた。
 言行一致という言葉がありますが、まさにブッダはそうであったということです。ただし、それは社会生活上そういったことが求められるからではありません。最大の問題は、気がつかない内に、自分に嘘を言う、適当にごまかすということが当たり前になるからです。そしてそういうことが増えていくと、自分を知ることが難しくなっていきます。

ブッダの言葉はわかりやすかった 
 名称には虚構性があるのです、そうとは言うものの、ブッダは弟子や来訪者に言葉でアドバイスをする必要がありました。つまり極めて虚構性のある語彙も使わざるを得ませんでした。しかし、だからと言って、決して曖昧な使い方をしていません。ブッダの言葉によって、聞き手が想像を膨らましたり、概念思考の連鎖に陥るのを極力避けようとしていたことが、見てとれます。具体的にどうしたのでしょうか、箇条書きにしてみました。
1.もともと多義的な意味をもつものは、一義的にして分りやすくした。
 バラモンが使う語彙を吟味なく、そのまま使うことはなかったのです。
2.概念用語を使うことをできるだけ避ける。
 例えば、Buddha(悟った)という言葉は、ブッダは用いていません。よく 使われていた言葉は「清らか」です。まさに今、実行できることしかブッ ダは言っていないのです。「ブッダ」という固有名詞化はブッダが亡くな ってさらに時代が下ってから用いられたのです。

聞き手に思考を求めない。
 先ほど言ったことと重複しますが、思考を求めないことに注意を払っていたので、ブッダの言葉は極めて分りやすかったと思われます。
 このようにわたしが言うと、「それでは、なぜ、スッタニパータの言葉はこんなに難解なんだ」という人もいるかもしれませんが、「それは、あなた自身が難解、つまり思考の森の中にいるからだ」、と答えざるを得ません。 思考の森を抜け出ると、自然と見えてきます。


1.はじめに
2.Dhamma
3.diṭṭha
4.abhijānāti

 


 


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