『スッタニパータ』(以降、ここでいう『スッタニパータ』は『スッタニパータ』第四章、第五章のことを指す)には、さまざまな来訪者との対話が記されている。その中で「[これではない]かといって[あれでもない]」というフレーズが多くもちいられている。前ページに紹介したSn.839もこの種類である。読み手にとっては一見、クイズのような、あるいは難解な哲学的内容であるように感じられるかもしれない。また相手の心を動かすための論法にすぎない、という人もいるかも知れない。このようなさまざまな見方があるが、哲学でも論法でもない。ブッダが伝えたい中身そのものである。
 ブッダは子供の頃より人生に対する「疑問」を抱き続けてきたと思われるが、その疑問は菩提樹下で「悟り」を開くことで自分の心と物事との関係を明白に知り得た。自らが実証しえたということである。「疑問」と「悟り」とは密接な関係にあるといってよい。この疑問を持つことはブッダの姿勢そのものであり、悟りに直結する。それはまた「何ごとにも依存しないのが良い」という説法の中心となって出て来るのだ。「自己存在への疑問がなくて、どうして解脱ができるのか」ということである。そして常に思想、姿勢、説法、それらがずれることなく、一体になっているのがわかるのだ。(2009.4.27)



 ダルマという言葉は『スッタニパータ』に多く出現しており、ブッダの教説の中で中心的役割がある。
 ブッダが語る言葉には、木の根や幹にあたる部分と枝、さらに葉というように、重みがことなってくる、ダルマはスッタニパータの中でも根や幹に相当する。
 ダルマのパーリ語はダンマ(dhamma)であるが、ここでは一般的に使われるサンスクリットのダルマ(dharma)の表記をもちいる。ダルマは日本語で法とか理法とかいう言葉で用いられることが多いが、中村元博士は『ブッダのことば』(岩波書店)の中で「事物」「真理」「法則」などの日本語をあてている。そうでなければ意味が通じにくいという理由からである。しかし果たしてそうであるのか、という疑問が残る。ブッダの教説は実に分かりやすいと聞き手の人の言葉があるからだ。当たり前のことであるが、概念的用語をもちいるほど聞き手によって受取り方は少しずつ変わり、また内容は現実から離れ分かりにくくなる。さらに、ブッダは名称(用語)と形態」ということに大きな問題意識をもっていた、ということを私たちは考慮しなければならない。
 ブッダ生存前にすでにあったと言われる『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』1-4-14にはダルマは「真理(sacca)」と同義であるという記載がある。さらにそれ以前のヴェーダには「保つもの」という意味があったが、それらの背景には神の存在と広大な宇宙観があった。ここがブッダと異なるところである。ブッダはそのような背景がないからだ。『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の「真理」だと意味がうまく続かない。むしろヴェーダの「保つもの」しかも宇宙の運行などではなく、自分を保つものという意味の方が適切である。
 自分の精神体を保つものとすれば「生き方」という意味が近い。(2009.4.27)

 

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