2020年02月04日(木)   <<BACK>>

遠くの山の頂を見る

 ふと、遠くにある山を見て、こう思ったとしよう。
「いつか、あの山の頂へ行きたい」と。
 人には大体、このような距離感があります。遠くにある、近くにあるという判断をしてしまうのです。覚り(悟り)といわれているものもそうです。
「すぐに腹を立てる自分がいる。覚りとはまったく逆の方向に行ってしまっている」とか‥‥‥。
 でも、高次、低次の差などはありません。それどころか、余計な距離感をもつことで、自分のこころの中に、「覚りとは手の届かないものである」という思いが定着してしまうのです。そうして大きな壁を作ってしまうのです。
 覚りそのものが難しくはなく、自分のこころが、難しいものとしてしまうのです。


 今、時代は困難を迎えようとしています。これまではなんだかんだと言っても、強者と弱者という二元的な構図を作り進んできたのです。植民地があった時代、いやもっと前からです。
 


 そして、現在も変わりません。ただ構造がもっと複雑化rしているのは事実ですが‥‥。
 私たちは遠くを見て、判断することに慣れてしまっているのです。遠くを見ることは、それはそれで大切なのですが、そういう見方以外はとれない方向に来ています。社会を良くすることも必要ですが、自己をいかに進化させていくのか、それを真剣に考える時期です。

 そのキーワードは「覚り」です。つまり目覚めることです。決して遠くにあるものではありません。
 怒りとかが、すぐに出る人なら、その怒りが自分を耕すクワになり、スコップになります。その怒りを自分が振り返り、よく見つめることです。
 悲しみもそうです。
 このように書くと、怒り、悲しみがないと、覚りは無理なのかという、意見も出そうですが、こう理解するのがよいでしょう。「自分が頼りとしている、この人間世界は虚構である」と。これが正しい認識です。
 もう起きる時間ですよー。


 


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