2019年04月18日(木)   <<BACK>>

「サーンキヤ・カーリカ」-1

 私が初めて東方学院関西教室の扉を叩いたのは昭和62年だから、1987年の時である。「東方学院の手引き」を見て驚いたのは、その講師の方々の陣容である。中村元先生を慕って集まったと思うが、中村先生がおっしゃっていたように、どの方も日本の仏教、インド哲学を牽引するトップの方ばかりだった。

 私が初めて東方学院に入ったのは関西教室が開講して3年目であった。そして山口恵照先生は、前年度の続きをやられていた。それは「サーンキヤ・カーリカ」の訳と解説である。
 黒板にデーヴァナーガリーを書かれて、その意味取りをされるのだ。ともかくチンプンカンプンで、先輩達が気遣ってくれて、ちょっと日曜日に家に来て勉強会をしようということになり、ある先輩の家に集まったこともあった。サンスクリットの辞書を引きながら、意味取りをするをするのだ。
 
 


 ともかく授業は充分に分らないまま、ノートに写していた。それから3年後に「サーンキヤ・カーリカ」を終えた。これ以外にもサンスクリット文法、インド思想概論、そして後に講座の科目となったパーリ語の授業を受けたりし、結局14年在籍していた。しかし、分らない所が多くありながらも、「サーンキヤ・カーリカ」の授業を受けたことは、後に大きなプラスになった。サンスクリット文献との付き合い方を覚えたからだ。

 知識が不足していても、ほとんど毎日文法書を見たり、辞書を引いたりしているとなんとかなる、という気持が起きたことだ。
最初から、決して完璧を目指さないことが大切なようだ。
 
 次回は「サーンキヤ・カーリカ」に出てくる大切な言葉「スークシマ」(微細な)について、少し述べたい。
 

▼平日だが、南京町は賑わっていた。外国の人も多い。


 


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