2019年03月26日(火)   <<BACK>>

FB 3月25日

「スッタニパータ」の解説(2)

 FBに紹介した1115番のわたしの訳はこうです。

 「何もない」という誕生地が現れることで、「欲する喜び」は束縛であると知ります。
 このように自らを証明し知ることで、真実に転変したすばらしいこの世界を、今、観ることになるのです。
 自在になったバラモンには、このありのままの智慧があります。

 わたしにとって大きな出来事があった。それは、体験を記したノートの1988年8月17日の所だ。この頃、大手印刷会社を辞め、失業保険の給付金ですごしていた。毎日、朝、昼、夕方と4時間ほど、ヨーガをしていた時である。週二回ほど、教室に行っていたが、それ以外は本を見ながらいろんなことにチャレンジしていた。
 特に朝と夕方は住吉川の河川敷(と言ってもコンクリートの散歩道)でヨーガをしていた。もともと1976年頃始めたヨーガであったが、仕事が忙しく熱心にはしていなかったのだ。
 ヨーガをしている人ならよくわかると思うが、ヨーガは「意識」と「観察」が大切だ。特に観察は目に見えないところでも、しっかり頭の中でイメージをする。
 ところがヨーガをやりながら、一つ大きな疑問があった。身体や呼吸を観察するのは良いとして、どうしてその続きで心を観察しないのだろうか?ということだ。ここまで至らないと、なんとも中途半端だと思っていた。

 ちょうど、大阪で用事があり、阪急電車に乗って帰る時、ある迷いが生まれた。いつもどおり河川敷でヨーガをしよか、それとも興味のあった、あの映画を観に行こかというものだ。
 「どうして、あの映画に興味があるのか?」記憶を戻しながら、過去の状況とその時の心の動きを観察した。関連するものとして四つほどの小さなきっかけがあった。そして、もうそれ以上遡れないところまで行った。いわゆる源泉地だ。そのとたん、忽然と消えた。迷いが。そして自我までも。何気なく首を少し後ろに曲げ、車窓から風景を見た。行き過ぎる風景の一つ一つが何とも、なつかしく感じられた。
 わたしは疑った。たまたまいろんな心理的要素が重なって、こうなったのではないか、と。そして今度は源泉地から迷いが生じていた自分まで逆コースを辿った。すると確かに徐々にその映画への関心が強くなり、執着を生んでいるのが分った。

 その頃、発刊されたヨーガの機関誌に「観察する」という題名で寄稿したが、その中で、次のようなことを書いている。
 自分が警察官で泥棒を捕まえようと追いかけ、捕まえた。そして顔を見ると、その泥棒は自分であった。
 その瞬間、泥棒の自分だけでなく、警察官の自分も、存在の根拠を失ってしまうのだ。
                        (つづく)

 

▲八幡神社(六甲)のツバキ

 


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