今、迷い、悲しみ、苦しみがあったとして、なぜそうであるのか、今から一つ前の原因、さらにその一つ前の原因というように記憶を源泉までたどる。年をとれば時間がかかるかも知れないが‥‥。
これが「自己の探求」とも言われていることである。記憶を戻して行くが、そこに論評を加えない。「あぁ、そういうことがあったんだ」というように、観察していくことに徹する。この観察はanupassanāである。「随観」という日本語訳がつけられているが、要は「推移を観察すること」なのだ。
「自我の終焉」とか「自我の消滅」という言葉があるが、勘違いしてはならないのは、「自我を消滅させる」というように、自分の意志の力でそれができると思ってはならないことだ。ただ集中してanupassanāや今の自分のこころを観察すること、それだけを行う。
そして、想念の元(源泉)に至れば、すべては消滅する。
たったこんなことで消滅するなど、俄に信じられないかもしれないが、自動消滅するのだ。言葉上だけでなく「虚構の世界」を直接的に見ることができる。
しかし、これが覚醒というわけではない。長年の習慣性や肉体に依存するこころがまだ残っているからだ。それらを機会があるごとに観察し続ける。
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▶「朝日と桜」
April.8,2012,inKobe
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