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2012年03月27日(火)   <<BACK>>

思考回路への依存

 今日はだいぶと温かかった。気がつけば3月も残り少ない。急激に暑くなって灼熱の夏を迎えるのだろうか。
 これまで「スッタニパータの会」では、呼吸法や瞑想を行う時間とプリントやテキストを読む時間を明確に分けていた。しかし、実践と講読というように分けること自体が難しいと思うようになってきた。読んで、話し合った内容を宿題のように家にもって帰って、みんなはどうするのだろうか?恐らく考えるだろう。もしうまく整理できなかったらさらに「考える」かもしれない。あるいは勉強会でやったことを、そのまま放置してしまうかもしれない。
 これはやはり遠回りなのだ。
 伝える「ことば」、伝えられる「ことば」にはそのような宿命的なものがある。思考という道を歩いてしまい、やがて、出口の見えない密林の中をウロウロすることにもなりかねない。「どうすればよいか」。答えは「勉強会の場で即実行」なのだ。anupassanāについてプリントにしたが、あーだこーだと思考が入る前に、実際にやって見て、その感想をお互いが聞き対論するほうがよい。
 要は言葉と思考で理解できるほど、こころの領域に関することは大雑把ではないということだ。コミュニケーションというプロセスを経て、相手に伝わるし、納得もしてもらえるのだ。
 3月4日に実施したこのやり方は、恐らく、最近言われる「ワークショップ」に該当するのだろう。しかし、実はゴータマ・ブッダがその先駆者である。ブッダが覚りを開いた後、以前の修行仲間に会った時、また弟子や来訪者との対話を行う中で「ワークショップ」のような進め方が行われたと充分推測される。
 思考回路を経ることは、決して悪いことではない、ただ、それに全て依存してしまうことが問題なのだ。

 

▶仕事で伊丹へ行った帰り、伊丹駅近くの花屋さんの前を通った。こちらはブルゾンのような温かい上衣を着ているのに、軒先の花達はすっかり春のまっただ中にいるようだった。
Mar.27,2012,in Itami
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