長年、『スッタニパータ』に関わってきた。四章、五章に集中する必要性を感じてからは、中村元先生の『ブッダのことば』の本を解体し、四章、五章だけに別表紙をつけ持ち歩いている。そうしなければ、四章、五章の内容に接近することはできないと思ったからだ。
「本当に読解できた」と思ったことがあったが、程なくそうではないことが分かる。それを何回も繰り返してきた。おかげで疑問詞のある充実した日々をすごすことができた。その一つに「理解するとは何なのか」があった。まさしく自分自身のことである。そして、同じ流れの先に「学問とは何なのか」という疑問詞が立っているのが見えた。
枠(名称とその概念)の中に意味を入れる。人間はそのような道を歩んできた。しかも適当な概念世界の中で生活をしていると、それに慣れ親しんでしまう。問題を自分に帰納させることは少ないから、小さなエゴを認めてもらい、小さな親切が普通であるその箱の中が居心地がよくなる。そこからなかなか抜けきれない。
ブッダが語る解脱(解放)は次を特徴とする。
「《想いからの解脱》において解脱した人」1071。
少し意訳してみた。
「《想念から解脱する》という想いからも解脱した人」。
その時、湧いてきた疑いや疑問を封殺させてしまう「行」は、むしろしない方がよいだろう。痛みをこらえたり、一定の姿勢を無理して保つのが「行」だと思うのも、誤りである。空性という意識状態は楽しく坐ることで、はじめて可能となるからだ。
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