2010年04月12日(月)   <<BACK>>

「何も想わない」とは(3)

 もし「こころの依り所は何か」と人から聞かれることがあれば、それは「空(empty)」であると答えたい。自己を依り所とする、とはこのことである。こころが空(empty)であるのだ。
 私たちはあまりに物質に依存し過ぎた。物質には「名称」と「形態」がある。名称はイメージを想起させ、イメージされた形態はこころを刺激する。度重なる刺激はやがて執着へと変化していく。「自分の世界の中に、これはなくてはならぬものである」と。
 実はスピリチュアルの世界にも「名称」と「形態」は浸透してきた。私たちの興味、関心を呼び起こすのは「不思議」と思う心作用である。
 普段見えないものが見える。あるいは感じるという不思議はこころをざわつかせる。仮にそれらが見えたとして、自分自身の問題が解決するわけでもないのに引きずられる。

 これは道草である。道草を食う時間があり、しかも地球の環境も待っていてくれればよいが、そう自分に都合良くお膳立てしてくれるわけでもない。
 空(empty)が難しく感じるならもう少し範囲を広くとってneutralでもよい。そこが自分の居場所である。
 もし中心地であるemptyから遠く離れた所に来てしまっても、「連帯しよう」「分ち合おう」という言葉に誘惑されることなく、独り速やかにemptyの山麓に戻るのがよい。ここが唯一わたしの帰るところであると‥‥。

→この場所からの桜木の撮影は三年目になる。まるで定点観察である。ビルの建設で桜の様子が少し冴えない。
(2010.04.04撮影 Fuji Finepix F70 0231)



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