2010年01月04日(月)   <<BACK>>

「何も想わない」とは(1)

 再び、坐ることについて少し書いてみた。内容的には年末にアップした「坐ると、さわやかになる」の続きである。
 坐った後、想いと想いの間、つまり何も想わない状態が生まれると書いた。しかしこれはそういう状態になろうと努力するものではない。そうでないと「何も想わない状態」が日常生活からピックアップされ、一人歩きしてしまう。すると「目的に対する方法」という構図ができあがってしまうのだ。
  私たちがこういう傾向性に陥りやすいのは子供の頃からの教育に原因があると思う。名称、形や概念、論理、話法、作文法が主流となる教育である。これらは社会の中で生きていく上において必須である。しかし全てではない。ここが大事であるにも関わらず,音楽や体育を除く普通の授業ではあまり教えられてこなかった。
 「何も想わない」というのは、自然とそうなるのであって決して獲得するものではない。ただ注意点はある。ボッーとしている状態ことではないということだ。だから「朝、目が覚めたすぐの時」また「忙しい仕事を終えた時」のこころの状態ではない。それらはこころが眠っていて休息の状態である。そこには緊張と充実がない。
  少しの緊張を得るためには、ただ背筋を伸ばせばよい。それでも全くこころが鈍ければ中断すればよい。恐らく昨日の出来事の中にその原因があるのだろう。
 決して、「目的に対す方法」という構図の中で、「修行法」を作ってしまわないように注意する必要がある。 こういうことにはまらないことだ。
 

→今日が仕事初めのところもあるのだろう。背広姿の男が数人セットになり、いそいそと歩いていた。カメラは彼らを避けて、アングルをとった。
( 2010.01.04撮影 Fuji Finepix S5Pro)




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