2009年03月11日(水)   <<BACK>>

気持よくさせるもの

 私たちには、気持を良くさせてくれるものが数多くある。そして、そのようなものに対し、常に私たちは肯定的であるようだ。
 レストランでおいしいものを食べた。念願のマイホームを買った。車を買った。人から誉められた。あるいは電車の座席に座っていて、前にいたお年寄りの人に席をゆずったら、笑顔をくれた。数えあげたらきりがないだろう。ただ注意して見ると、物惜しみせず人にあげたり、ゆずったりする気持よさと、人と競争し抑えて、その人の上に立ったときの気持よさとが、同じ心の入れ物の中に同居しているように思われる。
 雲泥のように異なるその二つではあるが、「気持がよい」という感じ方が同じだから、そうなるのではないだろうか。本当は「清々しさを感じるかどうか」という、大事な点はあるのだが、物理として残るものではないので、忘れ去られやすい。
 ただ「気持よくさせるもの」を〈人のためにする行為〉〈自分のためにする行為〉のように、二つの概念に分け、自分の行動を律したり、規範を作るのは決して勧められることではない。例えそのように区分しても、人の心はある時はクラゲのように漂い、ある時はウナギのようにするりと、そのような二分化された概念をすり抜ける。人は概念を参考にしても、心が概念に従うことは少ないからだ。
 本当に自分の心が満足するのは何なのか、どのようにすることなのか。そのように問うことで、はじめて分かってくることがある。
 そして、徐々に自分の生きていく姿勢が、明らかになっていく。
 一見ささいな、この「気持よくさせるもの」、実は極めて大きなものに成長する場合がある。棚上げにして、後の宿題にしてしまわないことが必要だろう。

 「スッタニパータ』には次の言葉がある。
 人が、土地や家、黄金や牛馬、奴隷や雇い人、女性、親族など種々の欲望を貪り求めると、無力のように見えるものが彼を征服し、困難が彼を破る。それゆえに苦しみが彼についてまわる。壊れた船に水が浸水するように。(769-770)

 黄金や牛馬という語が出て来て、古い時代を感じさせるが、内容そのものは現代の私たちにそのままあてはまる。
 心は、常に何かに依存し、執着しようとするようだ。ストレス社会にあって、対象への執着が心のバランスを取る上で必要だという人もいる。しかし、執着心があり、対象を追い求めること、その堂々巡りから脱したいものである。そのためには「気持よく感じる」その心をよく観察することだ。

→陽が傾いて、そろそろ夕刻になってきた。部屋はただ静まり返っている


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