2009年02月11日(水)   <<BACK>>

バクティ・ヨーガ

 インド、ヒンドゥ教にはバクティ・ヨーガがある。これは献身のヨーガとも言われ、弟子が師匠(グル)に対して献身の姿勢をつらぬくことである。一方、ジュニャーナ・ヨーガというのは智慧のヨーガと言われ、私たちの無明を明に転ずる。すなわち自分のエゴを形作る虚構を観察し、打ち破ることである。
 この両者は全く正反対のようにも見える。17歳で家を出て、以降死ぬまで南インドの山アルナーチャラに住まい、聖者と言われたラマナ・マハルシは、多くの訪問者と対話を行なった。その中でバクティとジュニャーナの両者は同一であると言っている。
  なぜ同一なのだろうか。
 少し話は飛ぶが、バクティについてはラーマクリシュナをグルとし、献身を貫いたヴィヴェーカーナンダの講演の言葉がある。単にグルが好きであるというのではなく、命さえも投げ出してよいとするのがバクティであるというのだ。男女の愛なら、一時の燃え上がる恋が生まれることもあるだろう。しかし本当に、相手の為なら命を投出してもよい。しかも永久にということになれば、自分の気持が揺るぎないか、日常の生活の中で検証していかなくてはならない
 ある時は献身を、違う時には全くグルを忘れ、エゴを通していたのでは、バクティとは言えないからだ。このようにバクティにはジュニャーナと同じように、自己観察(探求)の道筋を通るのだ。ラマナの言葉「両者は同一」にはそのような意味がある。
以前、インドからやって来られたスワミ(ヒンドウの僧)の話を聴く機会が何度かあった。彼らの話に共通することは、バクティ・ヨーガもカルマ・ヨーガもジュニャーナ・ヨーガも道は異なるが、解脱という同じ山頂に行き着く、というものであった。
 しかし、この言葉を訂正するなら、登山口は異なるが、途中から道は一つになる。つまり、解脱への道は一つしかない、ということだ。

 自己存在を問うこと。自分のエゴを観察し、エゴが存続する原因を探求する。それだけである。

※ラーマクリシュナ(1836-1886)
※ヴィヴェーカーナンダ(1863-1902)
 参考部分は『愛の叡智』日本ヴェーダーンタ協会
※ラマナ・マハルシ(1879-1950)
 「両者は同一」の箇所は Talks with Sri Ramana   Maharshi p40

→まだまだ寒い日が続くが、たまに緩む日がある。若い子の笑顔がはじける時でもある。



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