2008年09月12日(金)   <<BACK>>

流れる水のように

 少し冷たい摂氏4度の水が流れる。太陽の光を受けて、キラキラ輝きながら。
 私たちはこのように流れるのが本来の姿であるように思う。流れながらより上質な水となって。
 水の流れが停留すると、最初は魚の遊び場所となるが、やがて異臭を放つようになる。底にゴミが溜まる泥水になるまで、それほどの時間もかからない。制度、組織、それらの間を縫って人は停留場所を作る。流れる気持ちを忘れると人は権力をもとうとする。
 物質への欲、人との間で上位に立ちたいと単純に思うこと。それらさえも権力である。社会的反権力を謳い文句にするグループでさえ、そこに溜まろうとする思いがあれば、権力が生まれ、人は腐っていく。
 結局は体制、反体制ではない。論理、非論理でもない。そういうことも含む一切の「依存する」という己の呪縛を解き放つことだ。年をとっても肉体の衰えに悲しむことなく、どんどん爽やかできれいな水となり、やがて流れ去る。そうありたいと思う。

最近は天候が不順で、蒸し暑く、晴れと雨の境目が曖昧である。人間の意識(心)と科学といわれるものとの間には深い溝があるようだが、別に溝でも何でもない。人は見たいものは見て、見たくないものは見ないようにする。見たいものの中に科学的解明があるということだ。

右の写真は昨年の個展に出したもので、事務所にかけている。

 

 


2008(c)yamaji-kan