2008年03月12日(水)   <<BACK>>

解脱ということ

 昨日あたりから、少し暖かくなってきた。久しぶりにカメラをカバンに入れて、散歩をした。次第に空気もゆるんできたように感じられる。
 今日は解脱ということについて、少し考えてみたい。解脱というのは、あらゆる執着から解放されることをいう。そしてよく言われるのが、「どのようにすれば解脱するのか」ということである。
 この「どのように」という 問いかけは、 解脱を「目的」とし、それを達成するための「方法」を指す場合が多いようだ。仮に解脱に達する方法があったとして、日々行ずる人は、「今、この辺りまできている」と言ったり、「さぼっていたからまた最初からやり直しだ」と言ったりすることになる。
 感覚的に、「これは変だな」と思う人もいるだろう。実にその直感は正しい。
 私たちは客観的評価として指標を欲しがるが、そういう指標や、他人の評価に依存しないことが「解脱」だからだ。一見、逆説的であるが、逆説でも何でもない。常に自分の生き方の問題として捉えようとしない私たちの習慣性ゆえ、このような誤りに陥りやすいのだ。ただそれだけのことであるが、私たちの大きな障壁であることには違いがない。
 自分の現在の生き方から、だんだん執着する心をなくし、そういう生きていくプロセスの終端に「解脱」がある。だから、そういう生き方をしたくないなら、別に「解脱」を望まなくてもよい。「解脱」を望むなら、今の私は一体何に執着しているのか、を知ろうとしなければならない。経典などに出ている言葉を探し、その意味を知ることは解脱には直結しない。もし、していると思うなら、そのような自分をよく観察することだ。
  「言葉を探し、その意味を知ろう」としている正に今のこの自分の心とは?と。
  私たちは一番問うべきことをお留守にして、安易に、ほかを探しにかかるのだ。
  日々の自分を観察するように心がけるとよいが、特に見えにくく、観察しにくいものがある。それは「人を差別する心」だ例えば、修行をしている人の生活は、普通に働いて家に帰り、テレビを見たり奥さんのぐちを聞
   
 

 



いたりしている人に比べ、全然異なるかも知れない。「だから毎日、修行をしている人の方が勝れている」と思えば、これは大変な誤解だ。同様にヨーガの先生が生徒より精神的に勝れているとも言えない。
 生徒は先生から学び、また先生は生徒から学ぶのだ。学ぶ姿勢に一切差異があってはならない。
 少し乱暴な言い方かも知れないが、朝の瞑想修行はどうだとか、ヨーガのアーサナがどうだとか、あるいは経典にこう書いてある、あるいは書いていない、ということは二の次、三の次でよい。
 人の評価を欲しがっていないか。人に対する優越感はないか。本当に一切ないのか、一日に何度も問うことだ。もしあれば原因を探る。そうする生き方が、唯一解脱へ通じる。
 

 

 


 

 


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