つい先日、インド思想を学習し親しんできた人たちとの会合があった。その内の何人かとは、何年にも渡って勉強会を続けてきた仲間でもあった。久しぶりに楽しい集まりであった。しかしその時、ある人が、次のような言葉を私に発した。「サーンキヤに仏教は含まれる」。つまり仏教よりサーンキヤの方が優れているということを言いたかったのだと思う。その言葉を聞いた瞬間、まるで1000年以上前のインドにタイムスリップした気持ちになってしまった。
ブッダが説教を開始したBC500年頃には様々な思想家がいて、さかんに議論が行われたことは『スッタニパータ第4章』を読めばわかるが、紀元後、仏教がより体系化された時、ヴェーダーンタやサーンキヤなどの思想家と競ってきたところがある。終いにはお互いに相手の思想を包含していることを示すことで、優位を主張し合ってきた面がある。例えば密教では、インドの神々が取り入れられているし、また反対にヒンドゥ教の神々の中にブッダは取り入れられているのだ。
またそのほかの思想においても、自分の生き方を中心に据えた時、必ずしも「AはBを包含する」という論理は成り立たない。
その人の捉え方ひとつで、上になったり、下になったり、左や右に位置したりする。また大きくなったりもするし、小さくなったりもする。
そういうことが分かれば、精神思想や人生に関することについて「含む」という言葉が、いかに虚しいかが分かる。
この人の場合はサーンキヤであるが、もしそこに自分の執着を見てしまったなら、「含む」「優れている」等の心はすぐに消え去るはずである。
『スッタニパータ』から、次のブッダの言葉が大いに参考になる。
1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る規準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、存在しない。あるゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
(中村 元訳 『ブッダのことば』岩波文庫)
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このように、今回はいろいろ考えさせられることもあったが、楽しい会であった。二次会は喫茶店でコーヒーを飲みながらの雑談であったが、多いに盛り上がった。
高齢化社会で、人生を掘り下げたい、あるいは研究したい人もたくさんいるだろう。こういう種類の集いが、いろんな所で盛んになることを願いたい。
※今、ここでサーンキヤについて解説する余裕はないが、Wikipediaに「サーンキヤ学派」としてあがっている。参考にはなると思う。ただし、内容が不十分で的確でないところもあるようだ。
是非、この分野のオーソリティにWikipediaへの記述をお願いしたいところである。
Wikipediaへは他のことより、これを第一にしてほしい。
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