2008年01月06日(日)   <<BACK>>

生の全体知

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 この正月は少し寒い日もあったが、晴れの日が多かった。正月の新聞は地球温暖化の問題が、かなりのスペースを割いて掲載されていた。もともと、この問題の根は私たち自身の意識の希薄さにあるように思う。地球環境の大切さは以前から言われていたことであるが、目の前に北極海の様変わりした写真などを突きつけられ、ようやく「これでは、駄目だ」ということに、気づく人が増えてきた。
 私たちの記憶は、コンピュータのように削除しない限りいつでも在るというものではなく、当人の意識や関心の強さに大きく影響されるようだ。特に関心のないものはだんどん忘れ去られていく。インターネットや携帯電話が発達し、すぐ手にいれることのできる知が大きく拡大しても、関心のないものは眠ったままである。自分では自分をコントロールできる、と思い込んでいても、結構いい加減なものかも知れない。どうやら自我主張などが大きく、自分を省みるタイミングを失わさせるように思われるのだ。この自我の問題は2008年以降における人類の最大のテーマになるだろう。
 私が小さい頃、家から山へ向かって30分ほど歩いたところに養鶏場があった。細長い木造でトタン屋根の建物であった。近づくと鶏の騒々しいほどの鳴き声がした。そして非常に奇異な感じをもったものだ。同じ鶏でも少しずつ個体差があるはずだが、まったく同じ鶏として一列に並ばされているという薄気味悪さであった。しかも一羽の動ける空間はほとんどないのだ。生き物をこのようにして良いのだろうかと思ったのを覚えている。
 同じように牛や豚も似たようなものだ。機械的に殺され、解体される。しかも殺す人間と食する人間は、ほとんどの場合異なる。私たちがビフテキをレストランで食べる時、殺される寸前の牛のことを思うことはほとんどないだろう。
  戦後の経済成長の土台には大量生産と大量消費があった。これには、生産のオートメーション化や徹底した分業化が大きな役割をなしていたのは違いない。しかし、まるで機械の部品を扱うかのように、命が失われているのだということを重大なこととして取り上げられたことは少ない。そして食生活における生命の大切さをいつしか忘れさせてしまったのではないかと思う。
 このような 人間以外の生命に対する不遜な姿勢は、そのまま私たち人間に反映されるという皮肉な結果になっ
 
 

 


ているのだ。ほぼ毎日のように中学生や高校生といった成長期の子供達が起こす残虐な事件を見るまでもない。大人たちがそういう事件を知るたびに、「なぜ、こういうことに」と悩むのだが、子供達の事件の原因は、生命を粗末にしてきた大人達にあることに気づけば、ある程度、納得はできる。
  しかし、では私たちの生活をどのように変えていけるのかという道筋はなかなか見つけられそうにない。むしろ悩みはそちらの方にあるだろう。まず、子供達よりも大人がモノに依存しない、生命を無駄にしない生活をこころがける必要があるように思う。
 高度成長の途中、さまざまな公害問題が 住民を苦しめてきた。一方、「経済なくしては何もない」とか「生きていくためには仕方のないことだ」というワンフレーズが妙に人を納得させてきた面もあった。しかし、もうそういう言葉で騙されている時期ではない。
 情報の洪水に振り回されず、偽物を見抜くためには自分のコアが必要である。そのコアとは「自分の本来の生き方」に直接つながる知である。その知によって、生の全体性を感じとることができる。畑を耕すように、コツコツと心にクワを入れるのだ。

 


 

 


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