2007年12月23日(日)   <<BACK>>

物質から離れて

 ロケットは、燃料が切れると、後は落下するのみである。それと同じように最近の老人は肉体が衰退するとそれに従うかのように、心も小さくなっているのではないかと感じることがある。
 私の記憶では、人は年をとっても、例え背中が曲がってもそれに反比例するかのように、心の背筋がまっすぐ伸びた人たちがいた。今ではそういう人は極めて少なくなったのだろうか。60歳〜70歳の人は戦後の日本の経済成長を支えた人たちである。企業人として、家庭もそこそこに会社業績を上げることに必死になってきた。海外に出向き、自社製品の販路拡大をするなど、昼夜関係なく働いてきた。
 一生懸命働いてきたその見返りは何だったのだろうか。 マイホームを得、車を買い、家族に不自由をかけないこと、欲しいものを買い与える。そういうことでしかなかったのではないだろうか。それは企業人として顧客が欲するモノを提供する姿勢とさして変わらないものでもあったのだ。仕事と家庭を分けているつもりでも、本人が気がつかないうちに、仕事でしていることと同じことを家族にもしてしまっていたのだ。ふと、おかしいと感じても生活のほとんどが企業に依存している限り、思考や行動の範囲は限られる。そして、何が大切なのかという問いかけや、その答えを見つける努力はいつの間にか忘れ去られ、時が経った。
 話は変わるが、阪神淡路大震災の後、仮設住宅や復興住宅で自殺する人が相次いだ。本当に悲しいことである。毎日アルコールを大量に飲んだために病死した人もいた。仕事を失い、家を失い、家族を失い、自分の心を支えるものは何もなかったのだろう。そう思うと私たちはいかに「虚ろな中」で生きているのかが分かる。
 地震のただ中にあって、「おまえらの生き方は所詮、壊れるものによりかかっているのに過ぎないのだ」という声とともに、胸ぐらをつかまれ振り回される気がした。
 これは「震災だから」ということに限定されるものではない。私たちは自我を主張することに執着し、大切なことを忘れてきたのは、まぎれもない事実である。物質ではなく、「ありうべき心」を自分の柱とし、生命を慈しみ、モノに依存しない生活をおくるべきであるのだろう。さらに、このモノへ依存する生活は、そのまま、自分の肉体という物質に依存する生活になっていることにも、気がつかなければならない
 年をとると 体力、知力で若い人より劣る。老人は若い人より優れた点はないのだろうか。

 
 

 


  私が小学校の頃、友人の家に遊びに行った時、たまたま、そこのお爺さんと火鉢を囲むことになった。お爺さんは多くを語らなかったが、火鉢の灰を火箸でゆっくりかき混ぜながら、ボソボソと喋っていた。内容はよく分からなかったが、子供ながらいいようのない温かさとその部屋に充ちた独特の空気を感じた。この人は、僕らが知り得ない大きな秘密を知っているに違いない、と思ったのを覚えている。
 今の若い人は老人をどのように見ているのだろうか。すべてに古くなった人としてしか、
見ていないかも知れない。どんなに若くて力強い筋肉があったとして、容姿がよくて人の目を引きつけたとしても、例外なく人は老い、死ぬ。そういう当たり前のことをしっかり見ようとせず、ひたすら現在を楽しもうとする傾向が強いように思う。しかし、人を大切にせずモノへの依存を教えたのは、私たちかも知れない。
 燃料がなくなりロケットが落下の放物線を描き初めても、自分の心は身体にさえ未練なく、上昇を続けていく。そうありたいものだ。そして若い人たちに語りたいものである。人生の秘密を。

 


 

 


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