2007年12月15日(土)   <<BACK>>

「科学」について

 今日は「科学」について少し述べたいと思う。 私たちは 言葉を使うことで、思ったこと考えたことを人に伝えることができるのだ。しかも同じ言語であれば、家族や知り合いであることは問わずに伝えることができる。相手側からすれば、こちらの顔が見えなくても、言葉からその意味することを受け取ることができる。例えば「机」「椅子」という名称があるなら、具体的な形状やデザインは別にして、その機能性から大体の形を想像できるし、通常はそれ自体をテーマにしない限り、その名称だけでこと足りるのだ。
 このように物理的な形をもつ名称ならともかく、人が思ったこと、考えたことに対し、名称をつけ伝えようとすると、少々難儀になる。自分が思ったこと、人が思ったことを鏡に映し出すことはできないからだ。
 このような概念用語の中に、「科学」という言葉がある。よくひと頃、「科学」と「宗教」を対比させ、論じられたこともあったし、大学においては人文科学、自然科学というように、「科学」という言葉がつけられ、学問は科学的でなければならない、ということがより明確にされた時期もあった。「科学」には、論理的で筋が通っていて飛躍していない、また誰でもが確認できる、という意味があるが、物理学や化学であるなら、論文の信憑性は実験して証明できる、という点が重要な要素になる。
 科学が人類に果たす役割として大きいものに、未知の領域の開拓とそれに伴う知があるが、それ以上に大きなものに、私は心の問題の領域を限定し明確にできるということをあげたい。もし人類に科学的な姿勢がなければ、世界は神秘のベールに包まれ、オカルト的な知が蔓延していたと思う。
  しかしこのことは、科学的姿勢が決して心と対局の関係にあるということを意味しない。科学者自身が心という無秩序、不可分的なものに支えられているということなのだ。そういう己から自分は逃げ出すことはできない。だからただ面白いと自分が感じただけで、開発されたものは、後の研究者によって人類の貧困や環境に役立つものになっていく可能性もあるが、武器などの殺戮兵器になる場合もある。人類にとってどのような利益をもたらすか、さらに人類にとって利益とは何なのか、という思考が必要である。私たちの周りは依然と知らないことだらけである。その中で何を解明するかは、ひとえにその人の心の問題なのだ。
 実はヨーガなどの精神的な領域においても、この科学的な方向を重要としている人たちがいる。これは心の



問題を神秘のベールに覆うのではなく、論理的に説明できるものであるという姿勢から来ているようである。その点は筆者も賛同する。しかし、論理的に説明しつくそうとするなら、それは科学的というより自我主張と言ってよい。まるで人体解剖図のように心や魂の構造を表したとしても、自分の執着はなくならない。そういう構造や世界観に興味をもつことを悪いとはいわないが、ベクトルは自身ではなく、そちらの方に向いてしまうということを、まず第一に私たちは知るべきである。
 心でさえ科学の対象とすることはできるが、自分の心つまり「私」は決して対象化できないのだ。「私」の解明は内への探求によってのみ可能なのだ。このことは忘れず私たちは記憶にとどめておく必要がある。
 幼い時より物事を対象化させる役割である言葉を習ってきた。そして概念を含むさまざまな物事を名称化してきた。そのため、私たちにはとりわけ意識しなくても、名称を組立てる論理思考の習慣が染み付いている。しかしこの傾向性を放置していては、もっとも大切な自我の問題を掘り起こすことを忘れてしまうのだ。


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