2007年12月02日(日)   <<BACK>>

自己に向けられたベクトル

 電車の窓から眺める山々も色鮮やかになってきた。
濃い緑に赤、橙、黄が混じる。麓にひときわ鮮やかな黄が目立つが、あれはいちょうの木だろう。2007年を後1ヶ月残して、ようやく山々に本格的な秋が訪れようとしている。
  前回、自己を注視すること、観察すること、そして自己を知ることが何よりも大事であると述べた。
  ここを迂回しては、自己を見失ってしまうのだ。長年、坐禅やヨーガを積んだ人も、自己を見失えば過去の厳しい修行や何十年も続けてきた修行に関係なく、虚しい自分がいるだけになる。すべては「今の自分がどうであるのか」ということだけである。
  学問も同様のことが言える。真理を追求するつもりが、自己を見失えばいつの間にか、人からの評価を得ようとする方向に変ずることはよくあることだ。さらには人の論文に反論することに力を費やしてしまったりする。
 このように私たちは、少し自分をほったらかしにしていると、自分を省察することから逃げようとし、自分を見失ってしまう。
 もし、自分がヨーガの先生をして、教室を開き生徒さんをもっている場合、自己に向けるべきベクトルが疎かになっているかどうかは、次のことでわかる。いつも生徒さんが◯◯先生と呼んでくれるのに、突然ある生徒さんが「◯◯さん」と自分を呼んだ、その時、心にどのような思いが起るのかということである。「そんな呼び方は不適切であり、実に不愉快である」と思ったなら、どうやら黄信号である。だんだん自分が見えなくなりつつある。「失礼な!自分は人より尊敬される対象である」と、少しでも思うことがあれば、これは赤信号である。完全に人の「評価」にとらわれてしまっているのだ。
 私が子供の頃、両親は言わなかったのであるが、まわりの大人が「人から尊敬される人間になりなさい」と言っているのを聞いた。しかし今の私なら、「人から尊敬されなくてもよい。本当に自分が納得できる人生を歩みなさい」と言うかも知れない。「自分が人から尊敬される人間になりたい」と思っていると、そのうちに「自分は人より尊敬される対象である」と思い込む時期がいずれ来てしまうだろう。評価や尊敬の衣を身につけだすと、それとともに、どんどん自分を愚鈍にしてしまうのだ そういったものを脱ぎ捨てることだ。自己を省察できていない教師、かたや自己を省察できている生徒がいるとすると、立場や肩書きは別にして、中身は逆転してしまうことになる。

 ただ、この場でこういうことを多く考えることも止めておこう。誤りは先生、生徒の別なく誰にでもあるからだ。いや、生きている限りそういったことの連続であるだろう。すべての人に、悩み、苦しみ、迷い、また喜びがある。そして「共に生きている」のだという、ありのままを観る眼があれば、いつでも自分の内側にベクトルを向けることができる。
 このように考えていくと、人を自分勝手な思い込みで疎んじてはならない、ということがわかる。また、それと同時に、むやみに人に対し、頭を垂れることもしてはならないことがわかる。「あの人はすばらしい人だ、賢者だ、聖者だ」と人が言って、その場にいる全員がその人に礼拝し額を床につけても、自分が少しでも納得しないものには、行動を共にする必要はない。もし、自分を見る周りの眼が気なるのなら、そっと、その場を離れ外に出て、空を眺めればよい。木々を見つめればよい。
 そして、二度とその場所へ行かないことだ。私たちが依存できるのは、自分以外にはない。自分の家を空っぽにして出かけても、必ず自分の家に戻ることになる。自分の心から逃避してしまうことは出来ないのだ。

 


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