2007年11月23日(金)sutta-nipata   <<BACK>>

目的と方法(つづき)

 今日は明るい朝である。柔らかい日差しが草花を包んでいる。つい二日前から少し冷え込むようになった。天気予報では、この冬はかなり寒くなるとのことだ。まだまだ厚着している人は少ないし、私も例外ではない。ついつい身をすくめてしまいそうである。
  人間というのは勝手なもので、寒さを強く感じると、つい数週間前までの暑い日々など忘れてしまったかのようになる。地球温暖化問題も、とたんにトーンダウンしそうだ。私たちに必要なのは、トータルな知識と感性のバランスかも知れない。一時よく使われた全人的とか全体性とか言われた、あれである。私たちには、一年を通じた四季感覚が次第に失われつつあるように思われるのだ。インターネットで百科事典的な知は検索して取り出すことはできるが、個々人がそれぞれバランスよく知を摂取し消化できているかは疑わしいように思う。混雑、バラバラ、偏狭という言葉がつい口に出そうである。
  今回は「目的と方法」の続きを述べたい。前回のダイアリの末尾にこのように書いた。
 
  自分をよく注視できておれば「目的」意識など浮かばないはずである。

  もしどうしても「目的」という言葉を使いたいのであれば、自分をよく注視することが「目的」であるということになるだろう。そして、このダイアリを読んでいる人が、瞬間に自分を注視してしまえば、目的を達成したことになる。事実、誰でもすぐにできることであるが。
  こうなると、「いや困るのだ」と言う声が聞こえてきそうである。一般的には「すぐに達成できるものなど目的になりえない」からだ。こう見ると、「目的」という言葉には、あらかじめさまざまな属性が付加されているのがわかる。例えば、達成するのが難しいほど高い目的であるとか、目標より遠いところにあるのが目的であるとかである。しかし、解脱やニルヴァーナを、ほかの日常の物事と同様に「目的」とするには無理がある。自分の心の消滅が目的となるからだ。
 本来の自己を覆っているものがある。その本来の自己は何か。スッタニパータでは、名称をつけたり説明を行ったりはしていない。サーンキヤ・カーリカという哲学書ではプルシャという名称を使っている。では、覆いはどうしてできるのであろうか。
 自分の我欲や執着を放置している生活をしていると、それが習慣化してしまう。そうなると、あるときフト気
がつき、いざ自分の心を見つめようとしてもなかなか、


見ること自体が難しくなる。この場合はそういう生活の習慣が自分の覆いとなってしまっているのだ。
 そしてもうひとつの場合がある。仏教や印度思想の本を読み、坐禅やヨーガなどの実習にも関心があり、まじめに修行の年数を積み重ねている人に多い。そういう人にも自分を覆うものがある。その覆いとは目標や目的を決め、それを日々実行していこうという使命感、義務感、そして修行そのものである。こういう自分が自分を覆ってしまうのだ。全くパラドックスといってよい。
 この件はまた詳しく述べる機会があるだろう。
 そして、現在残っている修行の ほんどが想いを断ち切ったり、ひたすら捨てる方向で進められる。 このため、世俗の私たちとは全く異なる生活をしなければ、ニルヴァーナに至れない、という一般的な思い込みができているのだ。
  解脱やニルヴァーナは一部のエリートのためだけに用意されているのではない。万人に目覚める機会があるのだ。まず、自分とまわりの環境を、静かで、穏やかにするような努力をしたいものだ。
 私たちができることは、自分を注視し、観察すること、そして自分のことを良く知ること、それだけであるのだ。それ以外のものはどれも、自分から心を離れさせ、戻れないくらいに遠くへやってしまうのだ。


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