2007年11月18日(日)sutta-nipata   <<BACK>>

目的と方法(承前)

 今朝は晴れており、外に出ると気持ちよかった。私には集中しやすいカフェが何カ所かあるが、その内のひとつの店に入り、アイスコーヒーを注文した。この前にアップした「目的と方法」について、その続きを書こうと思ったのだ。
 
  先週、東京へ行く用事があり、ホテルで一泊した。その時に感じたことを最初に少し記しておく。
  朝、地下鉄に乗ろうと、駅までの10分ほどの距離を歩き電車に乗ったが、その短い間に、今の東京の雰囲気を味わった。駅周辺とホーム、電車の中はサラリーマンであふれていたが、何とも息苦しく、閉塞感で満ちていた。まるでブック弁当箱に詰め込まれたような、そんな感じなのだ。ほんの3〜4年前までは人の群れにエネルギーを感じ取れたのであるが、それがない。「東京がこれじゃな」と思わず言葉が出そうになったが、飲み込んだ。少し気を取り直してから、人間の知恵によって、必ずこの重い雲を打破することができると、自分に言い聞かせようとした。
  「解脱」「ニルヴァーナ」という言葉は、具体的には解脱した状態、ニルヴァーナの状態というように、すべての執着から離脱した状態なのである。その状態は本人が自分でしか確認しえないもので、それを計る定規はない。富士登山のように、何合目まで来た。山頂まで後少しである、ということはないのである。
 ただ、頻繁に問うことである。「今の私は、それでよいのか?」ということを。それに対して「欲望を感じ、それを満たそうとする自分でよい」と思うなら、それでよいのだ。ただ、100%そうでなく、少しの隙間があることを感じたら、じっくり、そう思わない自分を吟味してみることだ。「解脱」や「ニルヴァーナ」という言葉は古くより、インドで使われてきた。一般的とまではいわないが、日本でも使われている。それらの状態になるには執着から離れなければならないが、執着の内容については全く個別のことである。仮に人が「よくも、そんなものに執着しているな」と言っても、いわれている本人にとっては非常に大事であるのだ。そしてそれらの発生源を突き止めようしていくには、その人が辿ってきた、それを見たこと、それをどう思ったのか、どう感じたのか、ということをフィルムを巻き戻すように検証してみることだ。
 例をあげれば、あそこのチャーハンが食べたくなった。ベンツCLクラスが欲しいとか、そういうことなのだ。「執着」という言葉、「欲望」という言葉で自分の内を探しても何も出てこない。概念用語を弄んで、哲学的思索の海にこぎだすだけのことである。


 執着からの離脱と、簡単に私はここで書いているが、このように筆を進めている私は「解脱」とか「ニルヴァーナ」という言葉を使うと、ついつい「解脱へ至る」という言葉が出てきそうになる。「至る」は「目的」という言葉を登場させるし、「目的」があれば「方法」がないとおかしいというように、ほかの物事と同じようなパターンにはめてしまおうとするのだ。 ほんの軽い気持ちが、いつの間にかとんでもない方向に自分を連れて行ってしまいそうになる。
 そして、私に限らず、大概はこういうちょっとした油断や気のゆるみから、迷子のようになってしまうのだ。分岐していくのだ。原因は習慣的思考パターンもあるだろうし、自分を気持ちよくするものへひっぱられることもあるだろう。
  この気持ちよさにも種々ある。もし、人間に進化の余地があるとするならば、その辺りだろう。本当に気持ちのよいことと、偽物の気持ちのよいことの違いを、自分が明確にできるようになるということである。
  そして、目的意識をもたないことだ。目的意識をもつと「自分」がおろそかになる。逆にいえば、自分をよく注視できておれば、「目的」意識など浮かばないはずである。

▲往き帰りとも、富士山がよく見えた。年に数回、東京へ行っているが、新幹線の中でウトウトしていても、富士山にさしかかると、必ずといって目をさますのだ。

 

 

 

 

 

 


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