2007年11月11日(日)sutta-nipata   <<BACK>>

目的と方法

 もう11月も半ばになろうとしているのに日中は暑い。ブラブラと海岸通りに近いビル街を歩き、スタバに着いた。もうクリスマス期間に入ったのか、店内は静かなクリスマスの曲が流れていた。これからの土日、街は人であふれるのであろう。

 「人間の生き方」として、「私たちは大変な勘違いをしているのではないか」という強い思いが私にはある。それがこのコラムを書く大きな原動力になっているようだ。「人間の生き方」と言ってしまうと、何か私が正しい生き方を提示するような感じになってしまうが、そんな大げさなものではない。
 「解脱やニルヴァーナの境地にあるためにはどうすればよいのであろうか」。このように私たちが考える時、「目的」に対し、どのような「方法」をとるべきか、という「目的と方法」というパターンにあてはめてしまおうとしていないだろうか。その点において私は疑義を発するのだ。解脱やニルヴァーナを果たして「目的と方法」の構図の中でとらえてよいのかと。
 私たちは幼い頃より学校で、社会訓練を受けてきた。目的の設定、そのための方法や日々の努力等である。そのような学校生活を経てやがて就職するが、ここでもこの図式は変わることはない。いや、より明確にさせられるのだ。売上目標の達成、会社の業績などが逃げようのない数字で表わされるのだ。このように私たちの社会生活のかなりの部分が「目的と方法」の図式の中に組み込まれていると言ってよい。
  このため、解脱やニルヴァーナ、そうなるためにはどうすれば良いのかということも「目的と方法」でとらえてしまうのだ。それでも良いのではないかという人もいるかも知れないが、良くはない。むしろ、ここのところが最も注意すべき点だと私は思うのだ。
 私たちの心に染み付いている「目的と方法」の目的とは、「何かを獲得すること」がほとんどであった。つまり足し算であったのだ。例えばラジオやテレビの語学講座などは日々の足し算、そのものである。その積み重ねがあってマスターできるのだ。
  ところが、解脱やニルヴァーナについて言えば、「解脱」はあらゆる執着からの離脱のことであり、「ニルヴァーナ」は解脱によって得られる境地のことである。つまり消滅を意味する。
 執着とそれに付属するものを、どんどん捨てていくという引き算なのだ。そこが異なる。坐禅を10年間毎日続けることではない。また寒い日に滝に打たれるということでもない。

 

 

 

 

 

 

 経験や体験は何よりも確かなことのように捉えてしまいがちであるが、心に及ぶことについては、そうは言えない。全くもって不確かなのだ。にも関わらず、目に見えることとして、解脱やニルヴァーナをとらえ、また人を評価しようとするのだ。私たちは自分たちの内にある、信じてしまう傾向性のために、いままで随分とだまされてきたのではないだろうか。
 仮に「私はこのような修行をしました」と人に言うことがあれば、その人は、足し算をしてしまっているのだ。さらにそれを聞いた人から、すごいですねという評価を得たなら、あっと言う間に、加算メーターは跳ね上がるだろう。こういうことでは、当人はますます人の評価と一緒に人生の困難も背負わなければならなくなる。では足し算と引き算の二つの道があるとして、 その分岐点はあるのだろうか。
 確かな標識などあるわけではない。何よりも自分のことは 自分でしか知り得ない。自分を観察することでようやく見ることができるのだ。自我の隆起、その発生源を知ることである。
  そうするとわかるのだ。目的の達成などは何もないということが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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