2007年11月01日(木)sutta-nipata   <<BACK>>

ありたい、あるべき生き方の希求

 「ありたい、あるべき生き方の希求」、すべてはそれにすぎないということである。他には何もない。
 忙しい仕事の合間に、あるいは人と楽しい歓談をした後に「自分の生き方の本然は?」と人は思う時がある。しかし、ほとんどの場合が当面のスケジュールを実行すること、あるいは自分の欲望を刺激する事への関心の中で、そういう思いは埋没していく。
 振り返ると、私たちはこのようなことを何度も繰り返してきたのではないだろうか。思いが埋没する原因はいろいろあるが、ひとつには私たちがあまりにも会社などの組織に依存してしまっている、ということがある。組織の目的や目標から離脱した思考をもつことが難しいのだ。また習慣によって飼いならされた思考パターンから脱しにくいということもある。最終、自分への疑問が生まれても、そこからどうすれば良いのか、という次への展開が見えないので、また昨日の自分に還ってしまうのだ。
 古くより、人間は心の問題に関わりさまざまに考えてきたし、現在ではそういう方面の本が、たくさん書店に並べられている。当然、それらの本から参考になる意見を吸収することはできる。しかし「ありたい、あるべき生き方の希求」を、そういう本で代替えすることはできない。私たちは自分の生を日々歩んでいるが、本はそうではないからだ。
 「ありたい、あるべき生き方の希求」の「ありたい」「あるべき」というのは本当に自分が望むものということである。このどちらもが、人が良いと評価したものを拝借するのでもなければ、大多数の意見に従うのでもない。自分が納得するものを一生求め続けるのである。そこには常に自分への問いかけがあるのだ。「それでよいのか?」「本当にそれでよいのか?」と。
  少し話しは変わるが、ヨーガの教科書として読まれているものに『ヨーガ・スートラ』がある。そこには実習のカリキュラムともいうべき八支ヨーガが述べられている。その八支とは、禁戒、勧戒、体位、調気、制感、凝念、静慮、三昧のことである。以前、ヨーガの教師をしている人から「私は今、凝念の段階だ、もっと努力をして三昧までもっていく」という声を聞いたことがある。  それは良いとして、やり方を聞くと、ほかの思いを切り捨て八支ヨーガに専念しているというのだ。ヨーガに限らず、もともと修行といわれるものは、さまざまに湧き起こる想いを断ち切るという面がある。
  しかし見方によっては、必要性があるからこそ、さまざまな想いが湧き起こるとも言えるわけで、その源泉を突き止めずに想いを断ち切ってもうまくいかない。仮
 


に修行時間中はなんとかできても、それ以外の大半の時間はどうであるのだろうか。
  ホースから出てくる水をいくらかい出しても、蛇口を見つけ閉めなければ何ともしがたい。蛇口を見つけるためには水の流れに聞くしかないのだ。想いは水である。早々に想念を捨てることに躍起になっていては、蛇口を見つける手がかりさえなくしてしまう。さまざまな言葉で綴られているものも、古くから伝承されているものも、その中に、求める世界そのものはないということである。あくまで自分の中に自分が実現していく以外にはないのである。それは冒頭で言ったように本当に納得のいく生を自分が希求することである。
 解脱の先には光輝く世界がある、色が見えたと人が言ったとして、そんなことに自分の心が引き止められるようなら、そこに執着の芽があると知るべきである。そういうことに執着するのが本当の自分なのであろうか、と問うことである。執着に低俗、高貴の区別はない。そういう光や色を実体験したいと思うことは新しい自動車が欲しいと思い、それを実現したいと思うこととたいして変わらない。
  人が見た、あるいは見なかったと言ったとして、それがどうして「あなた」と関係あるというのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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