2007年10月24日(水)sutta-nipata   <<BACK>>

「愛」という言葉

 10月16日の朝日新聞には大江健三郎のコラムである「定義集」が掲載されていた。見出しは「自力での乗り越えを導く」で、アメリカの作家であるフラナリー・オコナー(1925-1964)について書かれていたが、コラムの最後で渡嘉敷島の戦跡碑の刻まれた文章についてコメントしている。その碑文は日本のカトリックの女性作家による文章で、島の教育委員会が発行している「六年生の社会科郷土資料」にも掲載されているらしい。二重の引用になるが、ここでは新聞に掲載されている文章をそのままあげる。
 「三月二十七日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納(おんな)河原ほか数か所に集結したが、翌二十八日敵の手に掛るよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或は車座になって手榴弾を抜き或は力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に三九四人の島民の命が失われた」
 これに対し、大江は問いかける。
 「 追いつめたのは米軍だけか?母親も幼児も自分で死を選んだのか?愛という言葉はこのような言葉か?問いかけは続くでしょう」と。
 私たちは生きていく中で、さまざまな不条理に直面する。このため、心は出口の見えない悲しみ、苦しみ、迷いに陥る場合がある。こういう状況の時はつらいが、それらを乗り越えることで自分は脱皮できるのだ。それを簡単な言葉でひとくくりにして安心させてしまうことは厳に慎まなければならない。この場合は碑文にある「そこにあるのは愛であった」という言葉である。個々により様々に異なる心の葛藤が、苦しみが、「愛」という言葉に一元化されてしまう危うさである。
 これと同じことが戦争のプロセスの中で行われてきたはずである。「愛国」という言葉がある。自分の中にある割り切れなさ、微妙な心の中のズレ、もう少し熟考したい、そういう心は「愛」ということばに一元化されてきたのである。そして周りの人と同じ「愛国」という心をもつことによる一体感と心地よさは、疑念という問を踏みにじってしまったのだ。
  長い苦しみの中で、ある人に対しては安らぎの場所(言葉)を提供する必要も出てくるかもしれない。しかし、それは声を大にして言うことではないし、ましてや人生の先生気取りで、「そこにあるのは愛であった」と碑文に刻むことなどしてはいけない。「罪」である。
 今年の2月26日にテレビで激戦地であった硫黄島を取り上げた「遠い島」が放映された。これは硫黄島の戦いから33年経った1977年11月に放映されたもので、その

               

再放送である。その番組の後の方では、遺族の人が集まって33回忌の法要を行うシーンがあったが、その部分が非常に印象に残った。僧侶が遺族の方々に「天皇陛下万歳」をうながし、万歳を唱和させたのだ。確かに遺族の心にある不条理はどこかに、何かに帰着させたい気持ちは分かるが、しかしそれが「天皇陛下万歳」という言葉で納得させるのなら、あまりに悲し過ぎる。
 同じ言葉を共有し、心を癒す。全体主義的な芽はすでにこういう所に見られる。これは戦時下における日本だけの話ではない。下手なアメリカ戦争映画の最終場面には生き残った戦士が銃をかかげて「自由のために」と声を上げるシーンがよくある。実際には9.11事件の後、ブッシュは「悪の枢軸」という言葉を使った。「善」対「悪」という、分かりやすい構図をそのままもってきた。そして昔と同じように市民は騙され、結果、戦争によって相手国の多くの市民が犠牲になり、またたくさんの兵士が亡くなった。
 こういうことから、私たちは抜け出るべきだ。群れを作ることから、少し距離をおくべきだろう。そして100人中たった自分一人だけが違う意見であっても、堂々としていてよいのだ。反対の理由をうまく喋れなくてもよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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