先日、仕事の合間に美術館へいく時間があった。今、兵庫県立美術館では「見果てぬ夢ー日本近代画家の絶筆」をやっている。着くと、菊畑茂久馬氏による「絶筆ーいのちの炎」の解説がホールで行われていた。
自身が画家でもある菊畑氏はさまざまな画家との交流がある。そのためか当事者意識があり、それが話を極めて分かりやすくさせていたようだ。10名程の作家の最後の様子が語られた。
紹介された作家の中で印象に残っていたのは
藤島武二と高島野十郎であった。藤島は死んだらアトリエを解体し、絵を全て焼却するように遺言を残した。
息子の二郎と藤島の弟子であった画家小堀四郎は、一年後の昭和19年3月3日にその遺言を実行した。アトリエを解体し、その場所で70点余の作品を燃やそうとしたその時、小堀四郎が、なんとか画を残せないか、と懇願したらしい。二郎は、あなたでは駄目だと言って、大工に作品を炎の中にくべさせた。
この菊畑さんの解説を聞いて、私の中でさまざまに思い出されることがあった。
実際に最近あったことだが、質素な身内だけのお葬式を行うことを当人が希望していたのに、業績を讃えるためという理由で、大きな葬式を行いたいという輩が出てきたりしたことがあった。
また遺したことについても、亡くなった人の意志、意図が必ずしも実現しないということはよく起こりうることだ。
敬愛する人が亡くなった時、その人の尊敬されるべき姿勢や生き方を習わず、その人をまつり、思慕することが何よりも大切なこととして、他の人にも「敬う」ことを求める場合もあるだろう。亡くなった人の冥福を祈るのはごく自然であるが、亡くなったのを契機に、ちらちらと生きている人のエゴが見え隠れすることはよくあることかも知れない。
また太平洋戦争で亡くなった人、戦地であるいは住んでいる地で‥‥。なぜ死ななければならなかったのか、それを問うべきであるのに、奉られあるいは無視される。これらに共通することは個人的事情や理由などは完全に疎外されていることだろう。
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紫陽花が目を楽しませてくれる。最近は時間のスピードが以前に比べて速いように感じられる。こう言うと、人から年をとったのじゃないかと言われそうである。少しずつでも精神の向上が、豊な時間をかもしだす。そうなれば、スピードうんぬんは、あまり気にならないであろう。
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