2007年01月30日(火) <<BACK>>

【喫茶室C】雑談記

M: この前のスッタニパータで860を紹介していましたが、分別についてもう少し解説をお願いします。

Y: 分別というのは物事を分けて見る姿勢です。私たちが日常で生活していることのほとんどが分別で成り立っているといってよいでしょう。特に現在の世界はITとか新しい技術が生まれ、また量子物理学とか新しい理論が生まれたり、発見が行われる度に名称とその意味が誕生しています。スッタニパータ860で、私が分別と訳しているkalpaというのは、時を計る尺度ですが、「劫」という言葉が使われています。測るということで「分別」という訳にしています。
最終節で、分別的に見そして知るということが決して無分別、そしてニルヴァーナへ赴かないということが話されています。翻って前半には、「自分が優れている」「自分は劣っている」という話がでてきます。これよりブッダは単に物事ではなく自分自身の存在のあり方を問うているということがわかります。

M: ということは何よりも「分別」というのは、「対象の見方」よりも「自分そのもの」を指しているということですか。

Y: そうです。そのようなものには論争の勝ち負けもありますでしょうし、あるいは「地位」、「資格」もあるでしょう。地位を得ただけで、ただそれだけで「私は人より優れている」と思うこともあるでしょう。そこに心地よさを感じ、自分の居場所を求めることは、自分の心の成長を妨げてしまいます。

M: ということは「分別」とはそもそも自分の地位のことと言ってもよいのでしょうか。

Y: そうです。さらに個人の地位や資格などに留まりません。ある団体や組織、もちろん会社も入るわけですが、〈自分がそこに属する〉ことによる安心感、連帯感、優越感が少しでもありはしないだろうか、と問うことは、何より自分にとって大切なことです。
ある仕事で苦労をする連帯感は気持ちのよいものです。しかし、それはそれでよしとし、また自分の道に戻り歩んでいくのです。連帯感の気持ちよさが残っていると、それを元の日常にも持ち込みたいと思う人がいるかも知れませんが、感性や思いに浸ることはできても、その世界に留まることはできません。

 

M: 「地位」は「評価」ということにもそのまま通じるように思います。

Y: その通りです。「評価する」ということは「お前はこの位置だ」ということにほかなりません。評価する側、評価される側、そこにあるのは「位置」です。される方は評価されることで心の位置を獲得したかのような喜びを感じます。位置の獲得は競争として、子供の頃よりやらされているわけです。このような競争が社会や生活を活性化させ、進展させる原動力となるという人もいますが、果たしてそうなのでしょうか。私は見直す時期にきていると思っています。

M: スッタニパータのどの一節も捨てるところがありません。

Y: この630の最後の一節をこのように解説してみました。
1カルパ43億2000万年という膨大な単位でもっても一切を測ることはできない。測り切ろうとするその自分の心、「意思」とか「欲望」といった自分を縛るものをまず見ることだ。それらがある限り、ニルヴァーナへ至ることはない。

M: 夕刻になりました。

Y: 近いうちに寒さがぶり返すようです。またお会いしましょう。

 

 


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