2007年1月12日(金)sutta-nipata   <<BACK>>

ブッダが語ったこと(10)
ー精神の自立ー

 明けましておめでとうございます。
  本年もよろしくお願い申し上げます。

 少し遅い始動となりましたが、今日はスッタニパータの860を取り上げます。この860が収められている第4章の前半は「論争」について述べられています。人によっては「いや、私は論争はあまり好まないので、関係はない」と言うかもしれませんが、論争そのものはしなくても、人間関係のことで心の中の闘いはいつ起きても不思議ではありません。
 スッタニパータには次のように出ています。
 
  860
 貪りを離れ、物惜みすることのない賢者は「自分が優れ ている」とか「自分は等しい」とか「自分は劣っている」 と語ることはない。
  彼は無分別であり分別知へは行かない。

 知らず知らずの内に、私たちは「評価の虜」になっていやしないだろうか。事実、さまざまに人を評価し合うバランスの中で、自分の居場所を見つけているのが私たちの生活であるといってもよい。
 評価とは「自分は優れている」あるいは「自分は劣っている」である。そして「自分は等しい」でさえも評価である。そういう一切の評価から脱出することによって、私たちは解放へ向かうことができる。
 脱出するといっても、「評価」は自分の心の中で辿ってきたプロセスの結果としてあるので、そう簡単に「評価する」こと自体をなくすのは難しいかも知れない。そこで、もう少し「評価する」原因へと自分の記憶を後戻りしてみると、貪欲や物惜みする心があることが分かる。
 貪欲さは多くを求めることだ。「知足(足るを知ること)」、サンスクリットでサントーシャという言葉があるが、例えば食事の時は食べることにだけに注意を向けて、ゆっくり噛んで食べるように心がければよい。知足は得られ貪欲さは遠ざかる。
 物惜みは不必要なもの、余分なものを捨てることで、そういう気持ちが起きなくなる。執着が物化したものが近くにあるのが煩わしくなってくる。
 そのような「清らかさ」はそれ自体が、評価に依存しない、心地よい居場所を求めない「自立する精神」になっていく。

→1月に入ってから気候の変動が激しいように思う。2月ならまだしもだが‥‥。今年が平和でありますように。

 


2007(c)yamaji-kan