2006年12月31日(日) <<BACK>>

【喫茶室C】雑談記

M: ダイアリを読んでいるのですが、なかなか「このようにするのが良い」とか書かれてあっても、実行するのが難しい場合があります。どうしたらよいのでしょうか。

Y: 人は悩んでいる時はなかなか、そこからは脱しきれないということがあります。一方元気になると、思うがままにしたいことができ、自分の心も自由にコントロールできると思ってしまいます。まあ、心は勝手なもんですが。そのような勝手なものであるということをよく知ると良いと思います。すると元気な時にどうすごせばよいかがわかります

M: 以前、ヨーガの初歩的な体操が良いというような話をうかがいました。

Y: ヨーガという名称をつけるつけないということはどうでもよいことですが、簡単な手足を動かしつつ、そこに注意を向けたり、呼吸に注意を向け続けるのは、心が散乱していたり、陰鬱な気持ちの時は有効です。
喫茶店でも電車の中でも呼吸にだけ集中するようにするとよいと思います。私がMRIの検査を受けるときは、常にこれをやってました。なんせ、狭い空間には弱いですので。

M: どこでも、ですか。

Y: そう、どこでもです。フトンの中でも、歩いている時も、してみたら良いと思います。ただ、義務感にかられることはないということです。日本人は「〜べき」というのが好きですが、自分を追い込むことは止めた方がよい。
身体や呼吸に集中して、心が快適になるからヨーガ体操をどんどん進めて行くと、ある時に心の極み、つまりニルヴァーナがやってくるんだと思う人もあるが、そうではない。物理(肉体)の制御が心の制御に移行すると思うと、間違った道に入ってしまいます。

M: ヨーガ体操で快適さを感じるのはよくないということですか。


 


Y:
いや、快適さ、それはいいんです。その本来の健康感を含め、快適さこそが私がいうところの「心の環境整備」なんです。これは例えば山を登る時に麓あたりのところでもう道に迷ってしまうということを避けることはできるし、登っていて迷った時はまた、麓の「環境整備」の所に戻ればよいわけです。この戻れるところがあるというのは心強いことです。ただね、「快適さ」といってもいろいろあるわけです。人がなかなかできそうもない難しい体操ができて、内心「やった」と叫び、そう思うことに快適さを感じることが一分でもあれば、これは明らかに誤った道に入るということです。非常にささいなことのようですが、ささいなことではありません。重要なことです。それと、ヨーガ指導者(先生)になると、まるで人生の指導者であるかのように自分を勘違いする人もいるわけです。
これなんか、以前から私が言っているように、自我を弱めるヨーガのつもりが、反対にますます、自我を強くしてしまっているわけです。しかも、そのことに当人が気づいていない場合が多いと感じています。

M: はい、わかりました。
今日は12月31日です。一年は早いですね。

Y: そうですね。爽やかな気持ちで、マイペースでやっていきましょう。
良いお年をお迎えください。
そうそうホームページも見られている人も良い年でありますように。来年もよろしくお願い申し上げます。

 


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