2006年12月20日(水)sutta-nipata   <<BACK>>

執着を離れる

 「執着」は常に自分の心のスキ間に入り、力を持とうとする。
聖者と言われる人においても、そうでない人においても状況は大きく変わらない。

 人のことはさておき、私の場合はどうであるのだろうか?
 このように述べている「今」において執着心は全然ないのだろうか?

 大体において、今の私は比較的穏やかである。明日、明後日のことは分からないが‥‥。
 一年程前、執着の芽が吹き出したことがあった。
 このホームページを良いものにしたい、たくさんの人に読んでもらいたいという気持ちが〈あるキーワードで検索したときに、上位にランキングされる〉ことを望む気持ちに転じたのだ。それは明らかに本末転倒である。
 いつの間にか「このようにする」という〈力への意思〉が大きく働き、望む結果を得ることに〈快適さ〉を感じようとしていたのであろう。〈快適さ〉を望む心が、日々の努力やよき習慣性をも転覆させることになると気づいていたが、本当に自分に分からせるまで、時間がかかった。
 それほどに、人のこと、対象(名称と形)のことはよく見て、評論しやすいが、自分にある偏見、欲望、執着はよく見えないのだ。見えないことが様々な苦しみを生むのだ。
 人の苦しみの根源はこの無明にある。
 ブッダが述べる一切は、ここに集約されるといってもよい。

 「今そう思い、そう言う自分に執着心有りや、無きや」と問うことだ。


→早朝歩いていると、雲間から太陽が顔を出そうとしていた。寒さがピリピリと頬に当たり、全身が朝の到来を感じている。

 


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