2006年11月11日(日)   <<BACK>>
科学と心の関わり(つづき)

 科学的、客観的に取り組むとは言っても、「このテーマにどうしても興味が湧かない」ということがあるように、関心、興味、欲といった心がつきまとう。このことを先日言った。
 「私は科学的な立場をとっている」と胸を張っても、その人は心をどこかにしまっておくというわけにもいかない。
  要は何を言おうが、何を思おうが自分の心からは逃げることはできないのだ。これは教育や福祉の分野でも一緒で、自分がいる限り心もついてまわるのである。だから、心をどうかしようというのではなく、自分の心をよく観察して知ることが、最も必要なことになってくる。
  心は欲望、願望、自己主張といった側面もある代わりに、寛大さ、やさしさ、慈しみもある。それらの変化をよく見て、少しでも納得のいく一日一日をおくることが自分にとって大事であるように思う。
 二回にわたって「 科学と心の関わり」について書いてきたが、今朝の新聞に関連する記事を見つけた。その一つは水俣病の原因究明や被害者支援を続けてきた宇井純さんが亡くなったということだ。東大の都市工学科助手であったが、昇進することなく万年助手(後に沖縄大学の教授としてむかえられた)と言われたが、水俣病を研究する傍ら大学で市民を相手に公害問題を中心に「自主講座」を15年にわたり続けた。宇井純さんが亡くなったことは、朝日、読売、毎日各紙が一斉に報じていた。
 もうひとつは〈工学倫理〉の講義が理工系の大学で2年前から実施されているという記事(朝日)だ。それは企業や技術者の倫理が問われるような事件が多いからというのが理由らしいが、やはり研究者や技術者の「心」の問題は大きい。講義を受講してもらうことはそれなりに意味はあることだが、受講して終わるのでなく、最終的には個々人が日々の中で、自分の問題としてとらえるようにしてほしいと思う。

→静かな日曜日だ。午後1時半であるが、だいぶと寒くなってきた。ぼちぼちコートの用意をした方がよさそうだ。

 

 


2006© copyright yamaji-kan