2006年11月10日(金)   <<BACK>>

科学と心の関わり

 自分に直接関わりのないことは、自分の問題としてとらえることは難しい、とはいうものの最近、人々はどんどんと無関心の方向にいっているように思われる。
  インターネットを通して、膨大な情報をいっぺんに見ることができるので、いちいち自分の問題としてとらえることができにくくなってきたというのもあるが、しかしそれだけではないように思う。
 ここで「科学」を例にとってみよう。
 「科学」 は客観的に物事をとらえ、論理的に説明する学問であるといわれている。「科学」という名称は、今から40〜50年前から 好んで用いられるようになった。学問の分類も自然科学、人文科学、社会科学というように「科学」という名称がつけられた。
  そして「物事は科学的に解明されることが正しい」とまで言われるようになってきた。事実、研究者の主観的な好みや感性が加わると研究そのものが信憑性に乏しくなる。
 しかし、「全てを科学的に究明できるはずであるとか、科学的な生き方を目指すべきである」というのは行き過ぎである。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」 であり、へたをすれば「誤り」に導いてしまう。なぜそうなのか次に説明しよう。
  人は何かをしようとする時には、必ず心の発動がある。発動というのは「なぜ、そうなんだろう」「このことを明らかにしてやれ」という心が動き出すことだ。これと似た名称として「興味」「関心」「動機」「意思」などがある。
  このように「心の発動」がまずあり、それに行動がつき従うのだ。さらに研究途中で「さまざまに湧き出る想い」や「欲」が研究者を次の行動へかりたてる。こう見ていくだけでも、客観的といわれる科学には研究者の心が大きく関わっているのが分かる。
 今、「科学」という言葉に隠れた研究者の心、それを改め問う時代に入ったとも言えるのだ。産学共同といえば、聞こえはよいが、科学技術が次々と製品として実現され、やがて捨てられたゴミの山(すなわち、すぐ用済みになるような研究)、これもしっかりと見ておかなければならない。

→近所の公園ではないが、ぱっと中に入って一瞬、木々の輝きに目を奪われた。ちょうど緑から黄、オレンジへと変化しつつある。

 


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