2006年09月05日(火)   <<BACK>>

「わかる」ということ(5)

 できるだけ「自分を分離させる 」 ことは避けよう。
  私たちは小学校や中学校で、社会の仕組み、世界の仕組みを習い、自分が社会に適応できるように教育を受けてきた。これは自分が直接見聞きする日常とは別の、広大なそして複雑な「概念」構築のトレーニングを受講することでもあった。
  ただしそれらの「概念」は必ずしも自分の心に生まれる喜び、悲しみ、穏やかさなどと直接的な結びつきがあるとは限らない、という点に私たちは注意する必要がある。全く無縁であっても、用語とその概念の構築は簡単にできてしまうのだ。自己を分離しやすくなる点はここにもある。以前にくらべ西洋哲学的な概念思考はあまりはやらなくなったが、その代わり、テレビゲームという視覚的仮想現実が子供たちの中に大きな位置をしめるようになってしまった。現実逃避にあっては解決の途につくことも難しくなる。
  最近、教育論がまた盛んになっているようだが、子供にとって最大の学校は、この社会である。そうならば大人の「分離せる自分」をまず、なんとかする必要がある。そういうことを熟考することなく、教育改革について議論するのは方向違いであると言ってよい。
 私たちはもはや、いかなるイデオロギーや全体主義思想の潮流、あるいは教義に飲み込まれることはない。私たちの精神はそれぞれの私たちの中で、スクッと起立している。誰れも命令できないのだ。軍隊であれ、人を殺せば殺人である。
 精神の起立とは「生」か「死」かという二元化を拒否することでもある。私たちはそれぞれの精神において不服従である。

→都会は楽しいことがあふれている。しかしそれ自体が己の微妙な隙間から深みへ通じることはない。

 


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