2006年09月02日(土)   <<BACK>>

「わかる」ということ(2)

 ドトールコーヒーでMサイズのホットコーヒーとジャーマンドックを注文して窓際の席についた。
 今日も一日暑くなりそうである。もうすぐ9時である。前の横断歩道に日射しが強くあたっている。土曜日でもあり人通りは少ない。
 昨日「わかる」ということについて、つれづれにキーボードを打ち込んでいったが、この「わかる」というのは、現代における最も大切なキーワードである。紛争、飢餓、自然破壊など、さまざまな困難の原因を探ると「結局はわかっていなかった」という人間の心に行き着く。
 現代に「本当にわかろうとする」ことが求められるのである。すべての解決策は自分の内にしかないのである。それを外に求めようとする。複雑かつ困難はそこに起因すると言ってもよい。「本当にわかろうとする」は、その人にとっては長い旅路かも知れない。そうであってもその答えを探さなければならないのだ。平和と静けさとを。
 人によっては、そんな難しいことなんてどうでも良いと捨て去ってしまいたいかも知れない、しかし、その人が死ぬ時にはいまだ解決の途についていないことにはたと気がつき、残念に思うだろう。
すぐに答えが出ないことを「難しい」と決めつけるのは自由だが、人からは逃れても、自分からは逃れ去ることはできない。また、ある人は模範解答を提示してくるかも知れない。もしその模範解答に満足するようなことがあるならば、勘違いもはなはだしい。迷い、悩み、苦しみは自分の大切なプロセスであり、他のことで代替えはできないのだ。

→公園に白い犬の像がある。後ろには壊れた犬小屋がある。この公園に足を入れるたびに、この犬の元に引き寄せられる。

 


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