2006年09月01日(金)   <<BACK>>

「わかる」ということ(1)

 今日の天気はよくないが、かんかん照りではなく、湿った風がここちよい。
 標題は「分かる」と漢字を使ってもよいのであるが、「分」は分別からきているので、ここでは使う気にはなれない。
  現代社会では、この「分かる」を重要視している。学校教育がそうである。サラリーマンにしても、ITがらみの新しい名称(用語)が生まれるたびに、内心落ち着かなくなる。最近でこそ減ったが、つい昨日に仕入れた知識を、翌日に「君はこんなことも知らないのか」と人に偉そぶる輩もいたわけだ。
 「分かる」とは〈違いが分かる〉、〈理解できる〉ということである。それはそれで良いのだが、「分かる」は「分ける」という行為を引き起こしやすくなることに、意外と私たちは気がつかないでいる。分けるというのは、日常生活では当たり前のことである。しかし、人間の心や精神に関わることについては、注意深くなければならない。過去、為政者は「分かる」という個人の感性や思考から「分ける」という決断や行為に誘導してきた。最近では米国大統領ブッシュの「悪の枢軸」論がある。
 人はそういう分別論から脱却しない限り、心の平和を得ることはできない。

→日中の暑い日射しは、朝から始まる。しかし光線と木々は調和している。自然が、地球が平和であるように。人の心も平和であるように。

 


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