2005年11月08日(火)   <<BACK>>

【閑話】
 集中と執着(1)

 「集中」と「執着」の何が共通し、何が異なるのであろうか。普段、この両者は特に対比させることでもないが、精神的に少しでも向上したいと自分の心をみつめた時、この両者を意識せざるをえなくなるだろう。
 まず「執着」を取り上げてみる。これはまるで磁石のように離れようとしてもまたくっついてしまうことである。あるいは粘着テープのように剥がそうとしても離れ難い状態をいう。
 磁石の場合は「磁界」が、粘着テープの場合は「接着剤」が、そうさせているのだが、人間の場合は「想念」がそれらにあたる。過去の記憶などが想起され、「想念」とワンセットになっている「喜び」や「怒り」「悲しみ」の感情が湧き起こり、さらに次の「想念」また次の「想念」というように、どんどんと膨み執着は強くなっていく。そして、執着すること=「自分の意思」と思い込んでしまうのだ。
 一方、「集中」は、執着と違って「心作用」に関係なく、注意力を1つのことに注ぎ込むことである。だから、「執着」と重ならない。「執着が集中を生む」ということも成り立つ。
 ということで、これで幕引きだということになるが、それではわざわざ取り上げる意味もなかったことになる。
 ここでは「執着を伴わない集中こそが求められる」ということを言いたい。物事に対して「関心」→「執着」と我々の心が進むとしても、「関心」の範囲に収めておくこと。仮に「執着」しても、早めに元の自分に戻ってくることが必要だろう。
 このようにして、執着の少ない状態で何かに「集中」すると、単に注意力が集まるだけでなく、無意識空間が拡大していくことが分かる。これは特殊なことではなく、誰しもがもつ人間の能力である。

→ただ一本の木が気になるときがある。みつめるだけで心地よい緊張感で満たされる。

 


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