関連するところをスッタニパータ第4章、第5章からピックアップしてみた。【中村元訳の『ブッダのことば』(岩波書店)より】
「(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。」(790)
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「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平和である。)」(839)
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賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。(778)
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パドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。
それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ、全世界においてなにものをも執してはならない。(後略)(1104)
ブッダの言う趣旨がつかみやすくなると思い、適当に「↓」を入れたが特に大きな意味はない
最後の「明らかに知る」、「よく気をつける」、「全世界において何ものをも執しない」はどれも大切である。「明らかに知る」とは言葉や学問の知識ではなく自分を知ることを指す。また単なる物理(肉体や呼吸)の修行だけでも心を制御できないのだ。自分を知ろうとしなければならない。自分をよく知ることは岩場に打ち込んだハーケンのように、次へ進む足場となる。これに代わる「足場」はほかに探してもない。知り方は「一部始終(次第)を知る」である。「よく気をつける」は今、ここにある自分の心を失念しないように注意をすることだ。それを見たときに「それを見た」であり、それを聞いたときに「それを聞いた」である。
「全世界において何ものをも執しない」とは、自分の心のどこを探しても、一点のこだわりもなくよく澄んでいることをいう。これは不安や恐怖の自然な超克につながる。
→朝の光がまぶしい。 |