2005年05月04日(水)   <<BACK>>

【閑話】
二元に責められる(2)

 「二元に責められる」という標題を掲げているが、私たちが「あれか、これか」という二元的な考え方に征服されてしまうのは、外部からのプレッシャーとは別に、私たち自身の中に物事を二元的に捉えようとする考え方がすでにあるからだ。私たちが幼少の時から受ける教育の大半は、モノの名称を知る事であり、同時に他のモノとの違いを区別することであった。このため、「区分」とか「二元」というモノの見方に慣れ、違和感を覚えることも少ない。
 近代から現代につづく世界は西欧に牽引されるところが多かった。西欧的思考の具体的実現は、大航海時代、植民地政策、二度にわたる世界大戦などに見ることができる。日本もその影響を受け、主導的立場を確保しようとし、さまざまな不幸を引き起こしてしまった。西欧的思考には「二つに世界を区分する見方」が東洋より強かった。そして、そういう見方から脱却できずにいるのが、今の世界だ。各地で対立と紛争が絶え間なく続いている。
 そういう二元的考え方は、自我(エゴ)を主張し、それを実現できる余地があってこそ可能である。しかし、現在の世界は飽和状態であり自我(エゴ)を実現させる空間はほとんどない。二元的な考え方とその実現の先は、どうやら行き止まりになっているようだ。うまく別のルートへ移行できるのか、行き止まりを無視して進むのかは分からないが大きなポイントにさしかかっている。
 ただ法律や規範また道徳教育あるいはイデオロギーを新たに設けることによって乗り切ることはできない。それらは新しい二元的構図を引き出すだけである。すべては自分の中にある「二元的見方」を克服できるかが鍵となる。鍵を差し込みドアを開けることができたとき、小さな自己からより豊かで大きな自己へと脱皮することができるのだ。
 一切はプロセスであり、変容する過程をもつ。「区別を知り生活を覚える」「区別する知を拡大して世界を知る」「区別を克服し平和を知る」「区別のない世界に心が住む」、どの地点も大事な過程である。物事を複雑にさせるのは目的意識やビジョンを優先させるため、今の自分が見えないことに起因する。そしてビジョンが自分の心から乖離していくのだ。そのようなビジョンや計画が人を幸福にすることはない。
  いついかなる時も「現在のありのままの自分」、それを知ることがすべての始点である。

→日本人には、恒久的な物より移り変わる自然を楽しむ心がある。桜が散るとツツジが咲き、緑が鮮やかさを増す。駆け足のように夏がやってくる。

 


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