2005年04月17日(日)   <<BACK>>

【閑話】
二元に責められる(1)

 私たちは常に、二元に責められている。「勝つか負けるか」というのもそうだが「生か死か」もそうである。最終的には「どちらかを選択しなければならないのだ」という見方に、人をさいなめ、自分をさいなめてきた。「戦争」がそうである。いまだに絶えることなくどこかで続いている。また公害問題もそうであった。「生活するためには仕方がなかった」「生きるためには仕方がなかった」という言葉がまるで一切の罪を払拭する呪文であるかのように吐かれてきた。
 連綿とつづく誤りの繰り返しが人類の歴史であった。しかし、これからはそうではない時代がやってくるのだろうか。もう二元に責められることはないのだろうか?
 今どこかで行われている戦争、それに対して批判的であっても、いざ自分が「自国の戦争に賛成するのか反対するのか」選択を求められても、毅然とした態度をとれるのであろうか。
 毅然な態度は、「二元」という幻想を打ち破って初めて可能となる。私たちは生きることが目的ではない。「生きて何をするのか」というのが目的なのだ。そうであるはずであるのに、いつの間にか肉食獣のいる檻の中に入れられているかのような幻想を与えられ、「見よ、これが現実なのだ」と、私たちを責める人たちが現れるのだ。そういう言葉の前に屈服し、育んできたすばらしい意識を、自然や生命を大事にしてきた心を簡単に捨て去ることができるとしたら、私たちは一体、何者であるのか?
 過去でもない未来でもない。現在の多くの大人にある「生きるためには仕方がない。これが現実だ」の意識、それが、まさに今ある心の危機なのだ。

→朝桜
写真は朝日を受けた桜。もうかなり花は散ってしまったが。朝もよいものだと再認識した。心地よい空気で満たされている。

 


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