2004年8月31日(火)   <<BACK>>

【閑話】
人を偉くしてどうしようというのか?

  「人は死ぬと偉くなる」というのは当然、「死んだ人が自分で偉くなる」というのではない。生きている人が偉くしてしまうのだ。本当にその人を親しく知り、長所も短所も分っている親友は「なぜ、親しき、愛すべき人を遠くへやってしまうのか」と不審に思うだろう。
  ゴータマ・ブッダもそうであったように思う。もともとは遠い存在の人ではなかっただろう。 ブッダのカリスマ性で保たれてきた集団(サンガ)において、ブッダがいなくなれば、集団は解体することは想像できる。修行者達がその集団(サンガ)を保とうとするとき、「中心」と「囲い」が必要になる。中心に据えるのは、評価を超えた超人的存在としての「ブッダ像」であり、また「教義」である。囲いにあたるのが、「戒律」である。
  誰のためにこれらが必要なのか?それは残った修行者の為に必要なのだ。 自分を拠り所とせよ。ダンマを拠り所とせよ。他を拠り所にするな。とはブッダの言葉である。この時の「他」とは「自分」と「ダンマ」以外の全てを指す。当然「他」の中にはブッダも入るのだ。 ブッダが亡くなれば、ブッダが言ってきた内容を本当に理解し継ぐべきである。そうであるはずなのに、人は「自分」や「ダンマ」以外に頼るものを作りだした。 それらが間違っていても、そのような人たちを注意するブッダもいないわけである。このように亡くなったブッダは超人に祭り上げられ、一番大事な中身は失われていく。 ぼちぼち、このような歴史の繰り返しから目覚める時に来ているのではないだろうか。

→「夜のショウウインドウ」 他の店の灯も消え、一つだけ残ったショウウインドウ。気になるのか、一人の女性がじっと見つめていた。

 


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