2004年7月06日(火)   <<BACK>>
【閑話】
ー見つめるー

 海と公園の見える「ホテルO」の喫茶ルームへ行くことがある。この喫茶ルームを利用するのは、原稿を書くのに長時間いても、ほかの客の迷惑になりにくいここと、ボンヤリして居られるからだ。 窓を通して見える公園の木々の小枝が風に微かに動いている様子や公園を横切る人の動き等をありのまま、ただ見つめている。
  今はほとんど上映されることのない西部劇映画であるが、平原にポツンとある家のベランダに老人が椅子に座って、ただただ地平線の彼方を見つめている。そのようなシーンが良く出てきたと記憶している。 まだ筆者がティーンエイジで血気さかんな頃は、ただ何をする訳でもないのに、人が椅子に座ってボンヤリしている映画のシーンに、「なんと退屈な人生なのだろう。年をとってもあぁはなりたくない」と思った。しかし二十歳過ぎの時、このような思いを撤回せざるを得なくなった。ゆっくりした呼吸に気持の充実を感じるようになり、どんなに長い時間であっても、退屈なく風景を見つめることができそうな気がしたからだ。
  途切れそうで途切れない、かすかな呼息。そのような息を観察していくと、見るものまで微細になっていくように思われる。当然ながら、急に視力がよくなっている訳ではない。普段、頭の中が、何かでいっぱいになっていると、粗くしかモノが見えない。これは見るものを選別 し、自分の目的とする以外のモノをいい加減に見ているからだ。目的意識が一時的に無くなると、実にモノがよく見えるようになる。呼吸に「注意を向け続ける(パーリでsati)」ことは有効であり、お薦めしたい。別 に坐禅スタイルをとらなくても、椅子に座って背筋だけは伸ばして、ただ呼吸に注意を向けさえすればよい。

→蒸し暑い時期であるが、紫陽花は目を楽しませてくれる。土壌の酸性、アルカリ性によって花の色が変わるらしい。まるでリトマス試験紙のようであるが、環境の中で生きていることを改めて感じさせられる。

 


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