2004年6月18日(金)   <<BACK>>
ブッダが語ったこと(6)
ー死は何かの契機とはならないー

 私達の日常生活に密着している仏教用語に「成仏」「解脱(げだつ)」「彼岸」「涅槃(ねはん)」などがある。
 それらの言葉に共通するのは「死」である。人が死ぬことを「成仏する」とか「涅槃に入る」といった使われ方がされる。「解脱」は輪廻転生からの脱出を、また「彼岸」 は亡くなってから四十九日を経て至る浄土のことを指すようだ。
 このようにそれらの言葉は人の死と関係づけられている。
 実は、今あげた四つの用語の中で、三つが『スッタニパータ』には登場する。右側にパーリ語で記すると次のようになる。
  解脱-mokka、彼岸-para、涅槃-nibbana
(paraの最初のaの上には「-」が、nibbanaの最初のaの上にも「-」が入る)。
 しかしながら、私達が使っている意味とは、全く異なるということに注意すべきだ。例えば「彼岸に至る」というのは『スッタニパータ』では、〈執着のある心〉から〈執着の全く無い心〉の状態になることを、河の対岸になぞらえて言っているのである。これは、私達が死んでからでは無理なのだ。このWebサイトの「スッタニパータを読む」の「その一」に「向こう岸」と筆者が訳しているのは、paraのことである。「彼岸」とすると、死後の世界と勘違いするかも知れないと思い、そのような訳にした。

→夕刻の交差点で、空を見上げると、グレーの雲のかたまりが覆っていた。何かの変化の予兆を感じ、人の心の窓が開けられた。

 


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