2004年6月13日(日)   <<BACK>>
ブッダが語ったこと(5)
ー目標を設定できるかー

 私達が子供の頃より受けてきた教育のひとつに「目標の設定」がある。自分で目標を設定し、それが達成できるように努力するのだ。そして達成できないときは、なぜ達成できないのか、その原因を探る。このようなプロセスは教育やビジネスの現場では、特に重要なことだとされている。さらに、私達が目標設定をするとき、ゴールした時の様子をビジョンとして描くと、より実現できる可能性が高いともいわれている。人のもつ想念は強く、「本当に自分はこれがしたい」という想いがあれば、目標に少しでも近づく選択を無意識下に行っている。恐らく途中で、目標の想念を途絶させるコトが起きないかぎり、ほとんどは達成されるだろう。
  この考え方で、『スッタニパータ』の言葉に「修行がうまくいけば、光り輝く世界が君を待っている」ということを付加したらどうなるだろう。 これは、やはり、嘘になってしまう。ゴータマ・ブッダがいう心の在り方とは「一切の消滅」だからだ。「目標」という想いさえも無くさなければならない。ここが、ゴータマ・ブッダの説く本質であり、シンプルでありながら、逆に難しいと感じさせる部分でもある。
  『スッタニパータ』には訪問者や弟子との対話が載っているが、質問を受けても、ブッダは決して一切の「執着」が消えた後に「すばらしい世界がある」とは言ってはいない。必要なことは〈取得する世界〉でもなければ、〈与えられる世界〉でもない。「私が消滅した世界」であるということだけなのだ。それをこちらの岸で見えない対岸の景色をとやかくいっても所詮、嘘の域を出ないし、そのような知識は何の益も生まない。

(註)ここで筆者がいう「私が消滅した世界」は「私」=「消滅した世界」の意味で使っているが、「私が消滅した」ところの「世界」でもあながち、誤りとは言えない。

→私は歩いている。昨日までとうって変わって朝から良い天気だ。空気が澄み青空に木々の緑が映える。太陽が眩しい。

 


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