2004年06月08日(火)   <<BACK>>
【閑話】私達は想念の囚われである

 私達は自分については「世界が公平に正しく見えている」と思いたがる。「おそらく人とは意見が違うだろうが、それはむしろ推奨されるべきことで、自分の主張に自信をもつこと、それがまず大事なことである」と、このような教育が、戦後行われてきたのではないだろうか。
  「主張」は良いとして、「広く公平」に見ようとする私達の努力はどれだけ行われてきたのであろうか。判断のかなりの部分は「先入観」や「怒り・悲しみ・喜び」といった感情に左右されていないだろうか。「もしかしたら自分の考えは偏っているのではないか」と自分に疑義を挟むことすら少ないのではなかろうか。 「世界を公平に正しく」と大きく取り上げなくても、私達は街を歩いているときでも、周りがよく見えていない場合が多い。この前、ウイークデーの日に通 りに面した喫茶店でひと休みすることがあった。行き過ぎる人を見るとほとんどの人は周りが目に入っていないのが分かる。じゃ彼等は何を見て歩いているのだろうか。それは、自分の中を占拠してしまっている〈ある種の感情〉や〈想い〉のようだ。
  「想い」、この小さな「想念」の空間にほとんどの人は閉じ込められているのだ。楽しい想念なら、デパートの買い物、あるいはレストランの食事ということになるかも知れない。悲しい想念なら、得意先から怒られて意気消沈し、連鎖的にいろんな良くない想いに心が満たされているのかも知れない。 私達は何かの想念ですぐ心が一杯になり、周りの新鮮な変化が目に入らなくなる。そして、しまいには中毒者のように「想念」がない状態に不安すら覚えてしまうのだ。だから想念を生み出すものを求める。TV、映画、ゲーム‥‥‥。しかし、これは「想念」や「映画等」が悪いのではない。問題は「想念」の世界に頼ろうとしている〈執着心〉とその〈習慣性〉なのだ。
  このように「想念」から抜け切れる時の少ない現代人であるが、抜ける時がたまにある、それは「自然」に接した時だ、自然は大きく、変化に富み、かつ微細である。自分の姑息な想念など完全に凌駕してしまうのだ。 想念のない自分に一瞬でも立ち返ったとき、世界を実感することができる。そして「〈想念に囚われない状態〉に自分の力でもっていくことが果 してできるだろうか?」。そう思ったとき、すばらしい自己探究の道に立つことになる。

→シャボン玉。私達はシャボン玉だ、中にあって想念を内膜に映し出し、それを通 して外を見ている。人はシャボン玉が壊れるのを認め、それを受け入れる。そしてまた自分のシャボン玉 を作り出す。ただシャボン玉が壊れることを受容できない人たちもいる。彼等は自分が正義と言って聞かない。そのために不幸を強いられている人がいかに多いことか。


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