2004年5月14日(金)   <<BACK>>
ブッダが語ったこと-3
ー名称と形態ー

 スッタニパータには「名称と形態」について述べられている所が散見される。ブッダが一貫して言っていることは「〈名称と形態〉に対する依存をなくせ」ということである。
言葉は 歩く→歩くこと→歩行 というように、動詞から名詞にいく程、「誰が」「どこを」という特定される要素(あるいは個別 の要素)が取り除かれていく。つまり、「足を踏み出して進む」という人間にとっての共通 の動作を表す事象として名称化されるわけである。そして次の例のように、名称化は目に見えない事象を拡げていく。
    考える→考えること→思考
    想う→想うこと→想念
    認める→認めること→認識
 このように単独の名詞としてパッケージされる。それを私達は「概念化」と呼ぶ。そしてパッケージされた概念用語の〈意味付け〉と他のパッケージされた用語との〈関連性〉をもたせる。つまりリンクさせたり階層化させるわけで、そうすることで世界全体を表そうとしてきた。これは人間の野望といってもよいだろう。
  この時、パッケージされた用語はコンポーネント(構成要素)として取り扱われる。概念用語を扱うことは古くから用いられてきたが、特に近代西欧哲学において、顕著である。 このように目に見えない事柄を概念化し、さらに論理体系化させていく学問を形而上学という。 そのような形而上学も虚無主義や実存主義によって、半ば崩れてしまう。
  実存主義の立場は「歩く」を例にとると「〈歩行〉の中に〈私が歩く〉という行為も包括されるなら、〈私〉はどうなるのかということである」。「自己は疎外されている」と言うのである。もちろん「歩行」という言葉はあくまで個々の〈ある共通 動作〉を表すのに過ぎないのであるから、「自己疎外」は前提の上であるが、この前提は忘れ去られることが多く、気がつけば巨大な論理の構築物ができあがっているのだ。そして人は「その当初の前提」についてとやかく言うこともなくなってしまう。 世界を表現し尽くそうとする野望(欲望)の前においては、前提など落葉のようなものである。都合の悪いものはどんどん忘れ去られていくのだ。
 つまり論理構築者は自己疎外された用語をつかって、自己投入(あるいは自己満足)できているのだが、それらを表した本を読む読者は自己疎外に陥る。

→雲は山を好む。東京の大平野ではなかなか見ることはできない。

 


2004© copyright yamaji-kan