2004年5月12日(水)   <<BACK>>
ブッダが語ったこと-2 はじめに

 ブッダの教えの中心にあるのは縁起観である。この縁起観は哲学的思索ではなく、体験によりもたらされることである。私がこう書くと、「瞑想中に自己の体意識がなくなる」こととか「意識が体から離れる」ということを連想したくなるが、そうではない。己の意識がジャンプするような場面 はない。むしろしっかりと自分の心に繋がれているのだ。縁起観により自分の心、そして心のほとんど全てを形成する「想念」について〈出現〉、〈展開〉、〈消滅〉、という一部始終を知ることができる。苦行から離れ菩提樹下での「瞑想」とはこの縁起観のことである。
 この体験は「心についての根底からの理解」をもたらし、ブッダが語る内容の中心を形成することになる。 しかし、この一度の体験だけで、私達はニルヴァーナに「住む」ことはない。
  なぜなら、私達は「悪い習慣」に浸かっているからだ。意識下での執着をも捨てるには努力によって「悪い習慣」を「良い習慣」に少しずつ変えていかなければならない。
 縁起観により想念が消滅する様子は「自動消滅」と言ってもよい。 どのような大木も、根が無くなれば倒さなくても倒れてしまうのだ。これはロジックの基本である。これは己の心についても同様である。現在の想念を形成する過去の想念の根がなくなった段階で、想念の大きな塊は消滅するのだ。 それだけではない。観察対象も観察者も「私」という同一者である以上、 観察している自分も消滅するのだ。自己の想念の消滅は一切の意図の消滅をも意味するからだ。
 しかし、人は自分に対しては簡単なロジックでさえ、当てはめることをしないのである。「執着」と「忘却」のみ行うのだ。

→出発待ち。待合場所は昔から映画のテーマとなってきた。特にヨーロッパ映画では駅の待合所をうまく描いているものが多い。そこにいる人のいろんな想いが溜まり、動き、交差する所でもある。


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