2004年5月11日(火)   <<BACK>>
ブッダが語ったこと-1 はじめに

 現在、日本で普及している仏教は大乗仏教と言われるもので、1世紀頃からインドで生まれたと言われている。それらの大乗仏教の諸経典を一ケ所に集めると膨大なものとなる。例えば大般 若経だけでも600巻ある。私達は仏教を理解しようとする時、これらの経典類、あるいはそれにまつわる論文をくまなく読まなければならないのだろうか?「いや、そうではない」と私は言いたい。 経典類で一番、古いと言われている「スッタニパータ」を読むと、ブッダが言わんとした内容は明白である。各論に入る前に少し、箇条書きにしてみる。
(1)人を苦から解放させるのを旨とし、世界や真理を体系的に表そうとしなかった。知識は単にうわべに終わり、本当に人生が分かる、というものにはなりにくからだ。
(2)論理体系を築くような用語を使うことを避けてきたので、形而上学的議論に巻き込まれることはなかった。議論の勝ち負けはエゴの世界のことだからである。
(3)同様に、体系的修行法をもたない。「この修行法によって解脱する」とは言わない。体系的用語と同様に、体系的修行法は「自分の現状の心」を治外法権としてしまうからだ。修行とは心の修行のことである。
(4)ブッダは単に苦しんだ人に対するカウンセラーで終わるのではない。ニルヴァーナという人生の最終目的を説くのである。
(5)ブッダが語ることはブッダ独自のものではないとブッダはいう。法(ダンマ)に照らし、自分が言ったいるにすぎないのだと。しかしブッダは目覚めた数少ない人の一人であることを忘れてはならない。
(6)ブッダは死後のことを述べてはいない。同様にニルヴァーナのビジョンを表してはいない。自己はプロセスの中で変容していくものである。しかし「ビジョン」をもつことは「自己の変容」の妨げとなる。
(7)ブッダにおける解脱とは輪廻転生からの解脱ではない。執着の連鎖からの解脱と言った方が正しい。なぜなら、今、生きているこの時での解脱をブッダは説くからだ。
(8)ブッダの悟りは「縁起観」により得た体験であった。これは特殊な行法ではない。いままで人が蓋をしてしまって、見ようとはしない自分のこころの推移を見ることである。
(9)学問、聖典、戒律によって、ニルヴァーナへ至ることはないとブッダはいう。上へあがる梯子は自分の中にしか見出せないということである。つまり欲しいものを一生懸命、外を探してもないということだ。

人には「人間としての特性」がある。ほとんどの人はその特性に気がつかないでいる。「苦しみの心は歓喜を欲する方向に向き、自分の中を眺めることは少ない」。これも特性の一つだ。
人間に共通する特性(問題点)、そしてニルヴァーナへ通じる道、それをダルマという。

→海は豊かである。心が穏やかであれば、静かな海をいつまでも見続けることができる。しかし、心が騒いでいる時は、退屈でしかない。


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