2004年4月8日(木)   <<BACK>>
「開放感」より「解放」へ(1)

 日常生活でさまざまに経験する開放感は一時、自分の心を爽やかにしてくれるだろう。しかし、もう少し、自分の幹や根の部分から開放感を得ようと思ったら、「自分を〈解放〉させる」ことだ。
まずその為には「〈誰が〉自分を解放させるのか」と考えてみる。 そうすると〈誰〉とは他の誰でもない「自分」であることが分かる。誰かから「こうしなさい」とか「あぁしなさい」とか、言われてやるのは解放ではなく「学習」である。自己責任でやる、これしかない。 仮に何かの「教義」によって自分は解放されると思っているなら、それは誤りだ。「その教義に依存すること」から自分は解放されていないということを、明確に知るべきである。

→「公園の桜」
公園の中が、咲き誇った桜で溢れているのも壮観だが、緑の松に囲まれた一本だけの桜の木もよい。私は今、桜の木を目標にして歩いている。


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