2004年3月26日(金)   <<BACK>>
透明な心

 画家入江観は2月22日NHK日曜美術館にゲストとして招かれて次のように語っている。

「画家は鉛筆を持ったとたんに言葉が消える」
「見たときに〈花〉〈鳥〉と言えば、それで終わりになってしまう。 言葉がある限り見えない」

 「言葉がある限り見えない」とは、感性の前に言葉が先にあると、「言葉」の所で行き止まりになってしまうということである。それは写 真家の星野道夫、藤原新也とて同様である。写真に付けられた彼らの言葉は、充分に感性が受け取った後に発っせられたものである。決して、先に形の名称や概念用語があるのではない。
  ゴータマ・ブッダはスッタニパータの中で〈名称や形態〉に依存することによる問題点をすでに指摘している。この前にも紹介したが909には次のように述べている。

  909 見る人は名称と形態を見る。また見てから、その通りに     認め知る。見たい人は多かれ少なかれ、そのように見た     らよい。その道の達人はこのように見ることで清浄にな     るとは説かない。

  私達が日常生活をする上で名称と形態は不可欠なものである。しかし、これは〈名称と形態〉が世界を知る上で必須のものであることを意味しない。むしろそれらにこだわることで、本質からは遠ざかる。このことは写 真家や画家などの芸術家だけでなく、全ての人間に共通することである。
  ゴータマ・ブッダは〈名称と形態〉が〈想念sanna〉に関係することを説く。〈名称と形態〉が〈想念〉を形成し、人は想念に囚われることで、想念にある世界しか展開できなくなる。想念がなくなれば、消滅は訪れる。消滅は広大な世界を開示する。

註)sannaはnとnの上に「〜」がつきます。
→上はドイツの客船「ドイチェランド」下は「空気レンズ」全然関係のない二つの写 真。単なる見せたがりです。




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