画家入江観は2月22日NHK日曜美術館にゲストとして招かれて次のように語っている。
「画家は鉛筆を持ったとたんに言葉が消える」
「見たときに〈花〉〈鳥〉と言えば、それで終わりになってしまう。
言葉がある限り見えない」
「言葉がある限り見えない」とは、感性の前に言葉が先にあると、「言葉」の所で行き止まりになってしまうということである。それは写
真家の星野道夫、藤原新也とて同様である。写真に付けられた彼らの言葉は、充分に感性が受け取った後に発っせられたものである。決して、先に形の名称や概念用語があるのではない。
ゴータマ・ブッダはスッタニパータの中で〈名称や形態〉に依存することによる問題点をすでに指摘している。この前にも紹介したが909には次のように述べている。
909 見る人は名称と形態を見る。また見てから、その通りに 認め知る。見たい人は多かれ少なかれ、そのように見た らよい。その道の達人はこのように見ることで清浄にな るとは説かない。
私達が日常生活をする上で名称と形態は不可欠なものである。しかし、これは〈名称と形態〉が世界を知る上で必須のものであることを意味しない。むしろそれらにこだわることで、本質からは遠ざかる。このことは写
真家や画家などの芸術家だけでなく、全ての人間に共通することである。
ゴータマ・ブッダは〈名称と形態〉が〈想念sanna〉に関係することを説く。〈名称と形態〉が〈想念〉を形成し、人は想念に囚われることで、想念にある世界しか展開できなくなる。想念がなくなれば、消滅は訪れる。消滅は広大な世界を開示する。
註)sannaはnとnの上に「〜」がつきます。
→上はドイツの客船「ドイチェランド」下は「空気レンズ」全然関係のない二つの写
真。単なる見せたがりです。
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